一般財団法人日本開発構想研究所
代表理事 戸沼幸市氏 に教えていただく新宿

2019.02.19

新宿の名前は、江戸時代に誕生した宿場「内藤新宿」に由来することは、本サイト「新宿街史1」でもご紹介した通りだが、新宿が現在のような東西に、商店の集まる繁華街、ビジネス高層ビル群など、さまざまな機能を有する世界でも名だたる街へ発展を遂げたきっかけは何だったのであろうか。街はどのような都市計画に基づいて整備され、また成長してきたのだろうか。

今回、新宿を始め日本、世界で多くの都市・地域計画に関わり、編著者として『新宿学』(紀伊國屋書店、2013年)を著された工学博士・早稲田大学名誉教授で、一般財団法人日本開発構想研究所の代表理事を務める都市学の大家、戸沼幸市先生にお話を伺った。
戸沼先生は1933(昭和8)年青森県生まれ、北海道・函館育ち。
早稲田大学入学を機に上京、繁華街にもほど近い新宿に下宿し、以来その街の変遷を公私にわたって長い間、見続けられてきた。
新宿の面白さについて伺うと、「それは、新宿という街の『前衛性』でしょう。400年前から新宿はずっと前衛的な街でしたからね」とお話になられた。

都市は、地理と地形によって決定づけられる

戸沼先生によれば、「渋谷や池袋などに比べると、東京23区のほぼ中央に位置する新宿は、江戸時代から続く街道の宿場という歴史的背景があるほかに、近代都市として発展する上で格好の地理を備えていた」と言えるそうだ。都市を見るとき、まずその「地理・地形的要素」が大事になってくるという。
新宿を知るために、始めにその地理・地形について、一緒に『新宿学』から戸沼先生、著者の方々の知識をご教示いただくことにしよう。

『新宿学』(第2章 松本泰生氏執筆)より引用
新宿区は、神田川・妙正寺川沿いに低地が広がる。区内で川の最も下流に当たり、標高が低いのは区の東端に位置する飯田橋付近で、標高約4mである。一方、台地は西へ行くほど標高が高くなる。新宿区内では淀橋台地の根元にあたる西新宿三丁目近辺の標高が最も高く、約42mである。(中略)なお、戸山二丁目にある箱根山は江戸期に造成された人工の山だが、標高44.6mで、これが新宿区内最高地点であり、山手線内でも最高の標高を誇る。

 武蔵野台地は新宿区内において主に神田川によって浸食され、これによって牛込台地、四谷台地などの台地と神田川流域の低地が形作られている。
 神田川には妙正寺川などいくつかの支流があり、区内の甲州街道以北の地域は、すべて神田川の流域で荒川水系の一部をなす。淀橋台地、四谷麹町台地の尾根筋を通る甲州街道がほぼ分水嶺で、甲州街道の北側に降った雨は、蟹川、加二川、秣川、亮朝院西側の支流、紅葉川などの小河川を経て、神田川、そして墨田川に流入にしている。
 一方、甲州街道以南は水系でいうと独立水系の古川水系に属す地域で、ここに降った雨水は渋谷川、赤坂川などに流れ込み、古川もしくは外濠を経て東京湾に至る。
 この他、江戸市中に飲料水を供給するために、神田上水と玉川上水が建設され、その水量を調節するために、神田上水助水堀や玉川上水余水吐(よすいばけ)といった支流も造られた。これらの上水や用水は、給水のため、尾根筋に近い場所に通されている。
河川や上水は、神田川と妙正寺川を除くほぼすべてが、暗渠化されたり下水道に転用されており、残念ながら現在は地表に現れてはいない。それらの多くは生活道路となったり、遊歩道とされており、古地図などをもとに辛うじて川筋を辿ることができる程度になっている。

同書(同章)より引用
 新宿区は南方と北方では地形の様相が異なっている。(中略)地形的な違いは、坂道や階段の向きや、そこからの景色にも関連性をもつ。北部の武蔵野面は斜面が直線的に連なるので、そこに造られる坂道や階段はだいたい向きが同じになる。例えば神田川は、新宿区と文京区、豊島区の境を西から東に流れており、川沿いの斜面は新宿区では北向き、文京区、豊島区では南向きである。そのためこの地域では坂道や階段も、南北方向のものが多い。また谷の幅も大きいので、高台上からは比較的遠く(200m以上)までを見渡せることも多い。
一方、南部の下末吉面の谷の向きは一定ではない。須賀町、若葉界隈の谷は入り組んでおり、そこにある坂も様々な方向を向いている。また、谷の幅が狭いので見通し距離は概して小さい。谷地に入るとややせせこましく感じられるし、まちを歩くと、そこかしこに谷や丘が現れる。

ここまで、都市の成長にはまず地理・土地の要件があるということをご教示いただいた。しかし、戸沼先生の都市学はそれだけにとどまらない。都市を構成する要素は「人」であり、また「人」が成長させていく点にも言及される。
そこで歌舞伎町の街づくり、敗戦後の「角筈一丁目」計画からお話を伺った。

1945(昭和20)年の敗戦を機に、都市計画という観点で新宿は日本の「都市計画」のモデルケーススタディとなります。一面焼失した場所で、街の復興を掲げたのは角筈地区(現在の歌舞伎町)の町会長、鈴木喜兵衛でした。新宿の将来性を考え、また戦後の人たちを惹きつけるための盛り場ということに着目した鈴木喜兵衛と東京都建設局・石川栄耀(ひであき)の官民一体の街づくりの成果は大きく、そしてユニークでした。

空間計画の特徴としてはヨーロッパの街の作り方と非常に似て、噴水を設けた広場(現在のシネシティ広場)を中心に、その周りを取り囲むように劇場や歌舞伎座を誘致し建設しようとするもので、これは鈴木喜兵衛らが海外の新しい都市計画や、街の様子に影響を受けたのでしょう。仕事と休息、楽しみを得られるような、「人間を元気づける街づくり」だったと言えます。

歌舞伎町の復興計画が公表されたのが1946(昭和21)年。その10年後に、街のシンボル的存在でもあったコマ劇場(2008年閉館)が完成します。これらは、新宿の街にどのような影響を与えたのでしょう?

コマ劇場というのは、歌舞伎町の中で非常に大きな役割を果たしていたのではないかと思います。街に劇場空間があれば、そこに人が集い、空気が変わります。

鈴木喜兵衛らが目標とした復興都市計画は「道義的繁華街」、つまり家族連れが楽しめる文化的アミューズメントセンターを掲げていました。人と人、家族と家族が顔を合わせるような生のコミュニケーションを目標としていました。これがコマ劇場の登場に結実していったと思います。コマ劇場は今はないですが(現在は東宝ビル)、コマ劇場を軸に存在していたような生の人間のパワーというのは、スマホなど手元であらゆる映像を見られる現代においても、今後ますます重要になるのではないかと思います。

新宿の中で、歌舞伎町にはどのような印象をお持ちですか?

歌舞伎町や、小さい店が今もたくさん並ぶゴールデン街は人間味のある街の匂いがします。歌舞伎町の周辺の通路には格子型の街区画とともに、江戸城郭内の守備的街づくりであるT字型の街路が今も残っています。元々は敵に攻め込まれた際の防衛のために用いられた城下町の伝統的な形です。小さな空間を迷路のように作り、非常に奥行きがあるように錯覚をさせ迷わせるためのものです。現代では、これらが残る露地は意外な出会いをもたらしてくれたり、街ゆく人の回遊行動を促したりする効果を生み出しています。曲がり角があって、何かを探しても見つからなかったり、誰かと会いたいと思って進んでみたら行き止まりで会えなかったりする。そういうところが、なんだか歩きたくなる街っていう感じがするのではないかと思います。

街に必要な機能として、どのようなものをお考えになりますか?

T字型の街路のような整理されすぎない街の要素も大事だと思います。それから僕らの学生時代には喫茶店も街の中で大きな存在でした。「ダベル(=おしゃべりをする)」ということは人として大事なことだと感じます。当時は、馴染みのお店に学生や先生が集まると、マスターや大人たちみんながいろいろな話を話してくれました。料金も安くて、学生を可愛がってくれるお店がたくさんありました。そのようなお店でたくさんのことを学んだと感じます。これも街の機能だと思います。

ほかに街ならではの存在などあるのでしょうか?

映画館でしょうか。学生時代、映画というのは非常に珍しかったからよく観に行きましたが、外国映画などは学校で教えてくれるよりも、はるかに「生」な情報をリアルに体感させてくれました。外国へ行ったような体験と変わらないように感じました。個人的な思い出では、戦後日本の初のカラー映画であったロシアの映画「石の花」も、たぶん歌舞伎町で観たのではないかと思います。新宿には、フランス映画や外国の映画に影響を受けた日本映画の上映もありましたし、当時でも新宿という街には世界の情報が一番集まっていたのではないかと思います。

僕らが学生の頃、田舎から出てくるということは留学するような感じに近い気持ちでした。東京に来るということは、何か世界とつながれるという思いだったと感じます。映画館は、大きくその機能を担っていたのだと思います。都市は、さまざまな人に出会い、人間について、街について、多くのことを学ぶことができる人生劇場であるべきじゃないかと思っています。

これから先、新宿の未来は何がキーワードになってくると思われますか?

「巨大ターミナル」としての新宿と並ぶもう一つの特徴は「国際化」でしょう。これまでは新宿にいながらにして「留学」するような感じだったのが、もはやそこが「世界」そのものになる。街を行き交う外国人も多いけれど、新宿の住民の数を見ても約30万人のうち4万人と、1割以上が外国籍の方です。新宿、とくに歌舞伎町は昭和以降、中国、台湾や韓国系の方が多く住む国際的な街でした。少子高齢化で人口減が問題となっている日本には、人口が増加するアジアなどから働く人、留学生、観光客と、より多く人が流入してくるでしょう。今後はグローバルネットワークの結節空間としての都市の在り方が重要になってくると思います。グローバルでありながら、その場ならではのローカル性と交差せざるをえない。僕はグローバル×ローカルの「グローカル」という言葉に注目しています。

戸沼先生は、行政とのプロジェクトなども多く経験されておられます。今後必要なプランはどのようなものなのでしょうか?

「新・新宿都市マスタープラン」といった、東京都や新宿区が、国際都市としての街づくりに向けて策定する計画もスタートしていますが、国際都市とともに「防災機能」を備えた都市づくりが重要な柱です。新宿を含む東京では直下型大地震への対応が大きな課題としてあります。都市の歴史、街づくりは、地理的要素のほかに、江戸の大火や近代の戦災、地震など災害の歴史と切り離して考えることはできないのですから、今この問題に向かうことは僕にとっても大きな仕事だと思っています。

戸沼先生が関わられ、2018年春に発表された「新宿シャンゼリゼ計画」についてお聞かせください。

JRの線路で分断されている新宿の東西エリアをつなぐのが「新宿シャンゼリゼ計画」です。JR新宿駅は東西方向の通過が甲州街道側と、青梅街道(靖国通り)側の両端からでないと出来ない不便さが問題となっています。大きい駅が人の通過を分断しているので、JR新宿駅の鉄路の上に人口土地をかけ、通路にすることでこの問題の解決を図るプランです。新宿マイシテイビル側と、小田急百貨店、京王百貨店側が線路をまたいで両エリア繋がるようになります。新宿御苑側から中央公園側へ、また逆も歩いて行き来できるようになり、より新宿に賑わいが生まれるのではないかと思います。

西に控えた未利用地を開発してきた新宿は、いよいよ現代に至っては、未利用地として駅上空を切り開いていこうとしているわけですね。

ここで「新宿学」をもう一度開いてみよう。

『新宿学』(第1章 戸沼幸市氏執筆)より引用
百万都市、江戸郭内の下町は既に稠密な市街であり、拡大には限度があった。また江戸下町に続く東側は、市街地拡大には河川や地盤など地形的に限界があった。これに対して、西側に位置する新宿とその後背地は、都市拡大の格好の予備地であった。東京が百万都市から、一千万都市、そして世界有数の三千万級の巨大都市へと変貌していく先兵の役目を、新宿は担ったことになる。

新宿駅路線の上部空間には緑と公園のあるゆったりとした歩行空間、広場空間を造るというのが「新宿シャンゼリゼ計画」の構想です。東京には水と緑が必要だと感じます。どんどん建物を造るのもいいけれど、水と緑がないと人は潤うことがなくなります。旧長崎藩主大村家の鴨場で窪地になっていた歌舞伎町界隈も、元々は大きな沼がある「水」のある場所でした。沼から流れる「蟹川」は早稲田の大隈庭園まで流れていて、今は暗渠ですがそうした地跡が残っている。「水」というのは都市計画においても重要な要素なのです。

「水」を意識して都市計画が作られる。「新宿学」によれば江戸時代、新宿の地は湧き水や川、池といった「水」が身近にある場所であったことがわかる。

『新宿学』(第2章 松本泰生氏執筆)より引用
 現在の荒木町にあった松平摂津守の屋敷は、北向きの小さな谷を邸内に持ち、北端部の谷の出口部分に堤を造成し、湧水を堰き止めて池を造っていた。現在、「策の池(むちのいけ)」と呼ばれている小さな池は、大幅に縮小されてはいるが、往時の池の名残りである。
 武家屋敷庭園内の池は、幕末期の切絵図や、明治初期の地形図で確認できる主なものだけでも、10か所ほどあり、小規模なものを含めればもっと多かっただろうと考えられる。江戸の町は庭園都市だったともいわれるが、屋敷毎に大小の池が存在していた様子はまさしく庭園都市そのものである。

駅路線の上部空間が東西地区につながれば、東京最大のターミナルはさらに大きな広がりを持った空間となる。そこに緑と水も配置し、便利になるのと同時に新宿がもっと歩いて楽しめる街になれればと思うのです。これは災害時にも有効な機能空間となるでしょう。僕たちは街全部を造ることはできません。民間の土地・施設も行政の持つ土地・施設もある。僕たちのできることは、全体を考えながら、ひとつ種を植えることです。

戸沼先生のおっしゃる前衛の街「新宿」は、人が生み出す「文化」と、未来を見据えた「開発」が限りなく継続し積み重なっていく、そんな力を見せている地ではないかと感じました。改めて、戸沼先生にとって新宿の面白さとは何でしょうか?

いろいろな国の都市計画にも携わっていますが、一番知っているのは何といっても新宿ですね。静止しているものでなく絶えず動いている、生のものだと感じます。人より少しは世界の街に関わってきて思うのですが、新宿は世界の状況を映す鏡みたいなところがあるように感じます。新宿にいればだいたい世界が読み取れるという感じが僕はします。そして、僕はこの街に育てられたと思っています。そんな新宿が自分の拠点でもあることを幸せに思います。

新宿が面白いと思うのは「街の前衛性」とお話ししましたが、新宿は、内藤新宿時代から常に時代の先端を走っている感じがしますね。武蔵野の大地に400年かけて、一大交通ネットワークとともに築き上げてきたこの都市には、世界から人も情報もお金も集まります。そんな中に、いまだに歌舞伎町やゴールデン街のような、小さな空間で人と人が出会うような溜まり場が残っているというのは面白いですよ。機能もあるけど、生のコミュニケーションもある。それが人と人の、人と街の変わらぬ未来でしょう。

21世紀のあり方は、国境を越える人間の移動行動によって、劇的に変わることが予見される。この点で、「グローカルタウン」新宿は固有の大地に芽吹き続ける、まさに前衛都市である。(『新宿学』第8章 戸沼幸市氏執筆)より

(モノクロ写真)資料提供先・所蔵先 新宿歴史博物館

「新宿学」(戸沼幸市編著、青柳幸人、髙橋和雄、松本泰生著/紀伊國屋書店/2013年)

Editorial department / 本文中の本アイコンは、
歌舞伎町文化新聞編集部の略称アイコンです。

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