「ACE’S(エイシス)」マスター 山下剛史さん
インタビュー #1

2018.04.18

この扉は夜8時に開くこの扉は夜8時に開く

新宿歌舞伎町ゴールデン街G2区画にあるロック&ブルースを聞きながら飲めるバー「ACE’S(エイシス)」(宿区歌舞伎町1-1-9)の扉には、「If you have a problem, Ask me !! I love English & you !!!」という張り紙がある。そのせいか、この扉は外国人が多数開ける。

店内には、20時も過ぎる頃には外国人らしき方々で一杯になる。このところの訪日観光客の日本人気を象徴するかのような景色がここにある。

いよいよ歌舞伎町ゴールデン街も諸外国の方々が訪れる人気スポットなのか、と思いマスターの山下剛史さんにお話しを伺いにいくと、どうやらこのお店の外国人人気には理由があった。歌舞伎町ゴールデン街を変えたと言われる「ACE’S」とマスター山下剛史さんをご紹介する。

普通に受験をしたらアメリカに???

歌舞伎町ゴールデン街を変えたと言われていますね?

いえ、そんなことはないです。

外国人観光客の方々がこぞってやってくるということを聞きました。

いや、ココは前から外国の方は多いです。いらっしゃる全体人口はすごく増えましたけど。

外国人の方々を迎えるために外の張り紙をされているのではないのですか?

そういうわけでもないんです。

なぜこのような張り紙を?

話すと長くなります(笑)。僕は生まれが関西で。そこからです(笑)。

ぜひお願いします。

僕は、小学校1年生から4年生までは名古屋市名東区、5年、6年生が京都市松尾大社の近く(最寄り駅は阪急上桂駅)に住んでいました。高校になると大阪府八尾市に引っ越し、吹田市にある大阪学院大学付属高校を卒業しました。卒業後に、関東にやってきまして、千葉県鎌ケ谷市に住むことになりました。ここで1年間大学浪人生活を送りました。このころから芝居とか映画が大好きで、日本大学の芸術学部、玉川大学、そういうところばかり受験していました。

1年の浪人生活を経て、帝京大学に入学したのですが、日本ではなく、アメリカ校(国際関係学科)へ進学しました。これがまた、1980年代後半の当時らしい話で。日本は当時バブルに向かって勢いづいていて、日本の企業がアメリカのあっちこっちを買収していたんですね。三菱地所がニューヨーク・マンハッタンのロックフェラーセンタービルを買収して、話題になって以降の時期です。帝京大学は、アメリカの大学(ロレットハイツ大学 現コロラドハイツ大学)を買収して、1990年に帝京大学アメリカ校、帝京ロレットハイツ大学を作ることになったんです。そんなことなど知らない僕は、一般入試で帝京大学も受験するわけです。試験の当日、昼休みに一枚の紙が回ってきて、今年からアメリカ校ができるので興味がある人は〇を付けてください、と書いてあったんです。僕はあまり興味もなく、気にも留めず、自宅に帰ったんです。家に帰ると母親に「テストどうやった?」と聞かれ、「簡単だから大丈夫じゃない?」と答えた後、そのアメリカ校のチラシを見せたところ、「ふーん、もうひとつ学科受けるんでしょ。じゃ、次の歴史学科の試験の時にこのチラシが回ってきたら〇しておいたら」と言われました。

母親は、外資系企業に勤めた後、英語の教員として、青山学院大学で教鞭をとったような人でした。子どもの頃から母親には「どこかのタイミングで海外に行きなさい」と言われていました。母は当時から目線を世界に持っていた人でした。父親も母親も外資系で働いていて、僕に英語に親しむような環境を整えてくれていました。英語に対しては想いがあったのだと思います。で、その一言が僕の運命を変えることになります。それで、次の学部を受けたとき、やはり回ってきたその紙に、「〇」と書いておいたら、アメリカ校なら入学できる、いかがですか? と。結果、僕は、そのアメリカ校の第一期生として入学をすることになったんです。

普通に日本の大学を受験したら、アメリカに行くことになってしまった、ということですね。

はい。普通ではない流れになって。

なんかさらに普通ではない予感がします。

帝京大学は、開校当時アメリカの大学としては認可を受けていなかったんです。それで、コロラド州立大学がバックアップしていて、卒業免状はコロラド州立大学からいただくことになるんです。

悪い話ではない気がしますが。

僕は、子供のころ両親が整えてくれていた英語の学習環境になじめず、野球しかしなかったんです。野球が大好きで、地元の少年野球チームに入っていました。小、中学校とも学校では野球部。高校には野球部がなく、日本拳法をやりました。僕が中学三年生の1985年は、阪神タイガースが日本一になった年。大阪にいた僕らの野球熱は、大いに盛り上がっていました。高校卒業が1989年(平成元)年です。そんな僕が1年浪人しているとき、ローリング・ストーンズが初来日するんです。僕はこのコンサートを見に行きました。そして、もうひとつの熱を見つけることになりました。

と、いう中での受験だったわけですね。

そうなんです。このときから、いつかローリング・ストーンズのコピーバンドをしたいと思い、帝京ロレットハイツ大学ではミュージッククラブに入ったんです。担当はヴォーカルです。ここで音楽にどっぷり浸かります。何せ、アメリカです。リアルにロックな時間でした。日本では、忌野清志郎さんが大活躍していた頃ですね。

それから今に繋がるわけですか?

それがですね。元々は芝居をやりたかったんです。ストーンズに目覚める前には、歌よりも俳優をやりたかったんです。野球と日本拳法と演劇少年だったんです。

なるほど、とにかく英語には遠かったわけですね。

そして、事件が起こります。

いよいよ核心ですね。

僕がアメリカに行ったタイミングは、黒人がハイウェイでボコボコにされたことが発端で暴動が起こるという「ロス暴動」(現在は、当時のアメリカの人種間の緊張の高まりが潜在的要因と考えられている)と言われる事件が起こってから、1年半ばかり経った頃でした。俳優熱もあった僕はアメリカに行ったら、ハリウッドで俳優学校を探して行こうかな、と考えていました。そんな気持ちを持っていったアメリカの僕の最初の場所は、大学のあるコロラドでした。コロラドは、アメリカの中西部、ロッキー山脈の東麓の大自然豊かな地域です。州都はデンバー。大学もデンバーにありました。

でも、デンバーはアメリカでももちろん著名な都市ですが、最初の印象は、「なんでこんな田舎に来たのだろうか」というものでした。大学も、建物はきれい(国の歴史文化財に登録されている)、だけどなあ、と。その後の人生で、僕のアメリカの原点はコロラド、になるのですが、始めはその魅力に気づかなかったですね。当時大学寮には、モーグルでオリンピックを目指していた中学生で、その後、長野オリンピックで銀メダルを取る里谷多英さんらが合宿所として使っていたり、今思うとそういう印象的なこともありました。僕が仲良くなった友人がスキーチームに入っていましたが、そこにはやはり長野オリンピックに出場した三浦豪太さんもいらっしゃって、一緒に仲良くしていました。みんなで、「パリスカフェ」というカフェで弾き語りを聞き、カードゲームをしながら、楽しんでいましたね。

なるほど、なんかデンバーに親しみが沸いてきました。

その後のロックに多大な影響を与えた伝説のブルースマン、ロバート・リロイ・ジョンソンが居る。(1938年没)その後のロックに多大な影響を与えた伝説のブルースマン、ロバート・リロイ・ジョンソンが居る。(1938年没)

そして、コロラドは知れば知るほど奥深いところであることに気づいていくんですね。デンバーから北西40キロのところにボルダーという街もあって、そこは「ヒッピーの聖地」と言われていました。当時、喜多郎さんが住んでいらっしゃいました。僕の出会ったコロラドの街々は、さまざまなことと音楽が一緒に入っていました。僕がそれまでに理解できていなかったことが、少しずつ紐解かれていたような感じでした。

臨場感が沸いてきました。

こうして僕は、好きな音楽、ロックとそのカルチャーの入り口に立った気がしていました。

僕は、ひたすらはロックと映画に埋没しました。映画はアメリカン・ニューシネマを大好きになり、「明日に向かって走れ」「イージーライダー」をむさぼるように観ました。

そして、人生最大の事件と、差別の萌芽

当時のデンバーの空気を教えてください。

当時のアメリカは、「ロス暴動」で象徴されるように、僕らも人種間の緊張感の高まりは感じていました。「ロス暴動」は黒人と白人、黒人と韓国人の人種差別が根にあったと言われていますが、僕ら日本人も決して好かれてはいませんでした。大学の中は守られていましたが、街に出ると、「日本人は帰れ!」と言われることもよくありました。特にコロラドは、首都デンバーにしても僕らの知る都会ではなかったので、おおむね皆、アメリカ人という単一民族しか目にしないところでした。アメリカで生まれてアメリカで死んでいくという人が多かったように感じました。アメリカ大陸は広くて、アメリカ大陸を旅しているだけで十分楽しいと思う人も多いお国柄なんです。他の国の文化なんて全然知ろうともしない。特にコロラドは乱暴に言えば田舎。現地の人は田舎しか知らないから、日本のことも「遅れている国」程度にしか思っていない人たちが多かったです。

そんな日本が、ニューヨークのランドマークを買ってしまったり、そんな話題がちょこちょこ流れていた時期でもあり、日本人のことはアメリカを蹂躙する異国の不気味なやつら、という印象だったのか、日本人に対しての差別的な風当たりも強かったですよ。

英語はだいぶ上手になられたのですか?

英語なんて全然できないままでした。入学するまで数か月ランゲージスクールにも行き、アメリカ在住はランゲージスクールも入れると、4年間半勉強しましたけど、上手に使えるレベルにはなってなかったですね。でも、当時は若かったし、何事に対しても前向きだったということもあり、へこたれることなくアメリカの環境を受け入れて、僕自身はたくましくなっていった時期だったと思います。話せないなりに、コミュニケーションは人間同士なので、伝えようとすることを、互いに受け取り合うことはそんな間違わないものだと思いました。こみいった話は無理だけど、基本的なコミュニケーションに困ることはなくなりました。でも、うんうんとだけ言っていて、まずいことになったこともよくある話でもちろん僕も、やってしまった、はありました。

そして、地域の人たちにしてみれば、日本の帝京大学はコロラドの重要文化財を買ったわけです。そういうこともあまり心よく思っていないようでした。それに、たまにいる日本人は偉そうにブランド品を着て街を歩いていたので、地元の人からよくいたずらをされていました。

そんな嫌な雰囲気の中で事件が起こったのですね?

そして、ここで人生最大の事件が起こるんです。忘れもしません。1990年10月7日のことです。友人の誕生日を大学の寮で祝っていたときのことです。大学の寮ではRA(ルームアシスタント)という、学生たちが酒を飲んでいないか、消灯時間を守っているか、とかを監視する役割の人がいて、学生たちを管理していました。その日の誕生会には、たくさんの人が集まっていました。RAから「今日は無礼講でも良いから、もう少し静かにしろ、周りから苦情がくるから」と言われたもので、みんなでギターをもって寮の上にある公園に遊びに行ったんです。

10月に入るとデンバーは冬が早くやってきます。コロラドの山は、10月の半ばから雪山シーズンになります。公園は、寒く、徐々にみんな帰っていき、最後には僕も含め6人ぐらいが残り、ギターを弾き、酒を飲んで騒ぎ続けていました。みんな18歳から20歳くらいの学生たちでした。そうこうするうちに、気が付いたらアメリカ人4人に囲まれていました。月がきれいで、シルエットになったアメリカ人4人の姿が目に入りました。その中の一人に「IDを見せろ」と言われました。うるさくしていたのでセキュリティーが来たのかと思い、「IDは大学においてきたので無い」、と返事をしたら、そのアメリカ人にギターを取り上げられました。ギターは、地面にたたきつけられ、彼らはギターを壊し始めました。指輪やお金も取られ、あちこち殴られ続けました。僕はバットと木のスティックで、2分ぐらい全身を叩かれ鼻から血が出ました。抗いようもなく、僕は裏返って亀みたいになってしまっていました。このままだとと殺されるかな、とぼんやり思っていたところ、ちょっとしたタイミングで、パッと目が覚め、酔いもさめて、抵抗しながら全員で逃げ出しました。

そしてどうなったのですか?

地元にはギャングといわれる集団がいて、当時、他にもギャング絡みの事件はありました。僕たちがひどく殴られている時に、警察官がたまたま通りかかり、公園の中がおかしいな、と様子を見ていたようです。警察官は、僕らが殴られている音が、拳銃の音だと思ったらしく、「ダートマスパークで発砲事件が起こった!」と報告をし、待機をしていたようでした。警察官は僕ら一人を引き留めに来たのですが、そいつも気が動転していたから、とにかく警察官をも振り切って逃げた。大学では、トラブルを起こしたら「強制送還」になるぞ、と言われていたもので、皆問題を起こしたらまずい、という思いが先行していたようでした。僕も、滝のように鼻から血は流れていたにもかかわらず、必死に走り、寮まで戻り、痛さをこらえながら、忍んでいました。そこに、警察官が警察犬を連れてきて、僕も友人たちも全員が警察官に捕まりました。

しかし、警察官は初めから僕らを容疑者とは思っていなかったようでした。それから数日後に犯人が捕まりました。そこから、僕は2年間、この事件の裁判に出廷するとになります。デンバーに4年間滞在していたうち、2年間、裁判をしていたことになります。警察官の担当官として、アジア系犯罪の担当者がつきました。その担当官から、警察のデスクに、コロラド中の犯罪者のリストを並べられ、「この中から君たちを襲った犯人を探せ」と言われ、1日中見続けさせられました。暴漢たち4人のうち、2人をそのリストから見つけました。どうやら、4人のうちの2人はフロリダから離婚した母を訪ねてきた兄弟で、一人は地元のギャングで、メキシコ系アメリカ人。この犯人が一番悪くて、リーダー格だったようでした。彼は当時、16歳にもかかわらず、殺人以外は、あらゆる犯罪をしていたとのことでした。

えらい目に会いましたね。その後はどうなったのでしょうか?

この事件は、アメリカ全土にニュース報道されました。日本でもニュースステーションで放送され、久米宏さんが、「アメリカのデンバーで日本人学生が暴漢に襲撃されました」とニュースを読まれたそうです。それから、裁判が始まりました。この裁判をニューヨーク在住の青木冨美子さんというジャーナリストの方が興味をお持ちになり、毎回、裁判を傍聴しておられました。青木さんとは次第に打ち解け、会うたびに「おいしいところ食べに連れてって」と言われ、コロラドでベストオブデンバーと言われている寿司屋「Sushi Den」にご一緒するようになりました。「Sushi Den」は、こんなところに寿司屋は無いだろう、というところにある寿司屋で、松井稼頭央選手(現埼玉西武ライオンズ 当時コロラド・ロッキーズ)もよくいらっしゃっていたお店でした。

青木さんは、アメリカのジャーナリストであり、コラムニストとして著名なピート・ハミルさんの奥様になられた方ですね。

はい、はじめはそんな著名な方とは知らずに、お付き合いさせていただくようになりました。僕が音楽をやっている、と言うと、「山下君はどんなバンドをしているの?」と聞かれたことがあって「ブルースブラザーズのコピーバンドをしています」と話したところ、「じゃあ、映画『ザ・コミットメンツ』を見るといいよ」と勧められ、この映画を見てから僕は、ソウルミュージックや、ブルースとかの、アメリカのルーツミュージックにハマっていきました。青木さんの影響が大きかったですね。青木さんは、「ニューヨークに来たら、うちに泊まっていいし、ミュージカルとかのチケット取ってあげるから何でも言いなさい」と、言って下さったり。この事件は、僕を青木さんに出会わせてくれた事件でもありました。青木さんは、この事件を1993年に、「デンバーの青い闇―日本人学生はなぜ襲われたか」(新潮社刊)という一冊の本にまとめられました。

すごいですね。まさに当時のアメリカの世情を映していたような事件だったわけですね。青木さんは、そこに敏感に反応して、この事件を追いかけたのですね。その犯人たちはどうなったのでしょう?

事件があった時に逮捕された4人のうち、1人は司法取引をして無罪放免。3人は刑務所に入ります。3人のうち1人は当時16歳だったので少年院へ、残り2人は20歳くらいだったので、鑑別所に入ったようでした。結局彼らは「人種差別法」という法律で罰せられることになりました。これが当時アメリカでは一番重い罪で、懲役30年が課せられる罪でした。ボスだった子は、さらに恐喝・暴行とかそれまでの犯罪歴がすべて足されて、懲役67年の刑になりました。

懲役67年ですと、無期懲役みたいなものですね。

でも、アメリカの刑務所は、1日真面目に過ごしていると、2日分カウントをされ刑期がマイナスされるそうで、仮釈放が早くなるとのことでした。

そのような事件に巻き込まれて、山下さんは精神的なダメージはなかったのですか?

肉体的には鼻の骨を折り、精神的には2年の裁判がきつかったです。僕らの扱いは犯罪者側ではなかったけれど、2年は永かったです。アメリカでは、このようなとき、必ずセラピストがつきます。僕もしばらくセラピストともお付き合いしました。事件後、だいぶ臆病になってしまって。でも、これではダメだ、と思い、一人で旅に出よう、と考えました。自分自身のリハビリのためにも一人でアメリカを動く旅をしなければだめだ、という気持ちになったんです。1991年に日本では、忌野清志郎さんが「メンフィス」というアルバムを出されていまして、メンフィスに清志郎さんが行かれたことを知って、メンフィスに行きたいという気持ちになり、まず、メンフィスに行きました。1992年から1993年のことです。これがきっかけになって、シカゴをはじめ、僕のアメリカン・ルーツに触れる旅が始まりました。

俳優の夢はどうなったのでしょう?

そんなこんなで、過ごしていたアメリカでは、俳優になろうというより音楽への思いが強くなりました。そして、シカゴ、メンフィス、ニューオリンズと、ルーツを探る旅で巡った結果、ミュージシャンになると決めて日本に帰ることになります。

かなり重要な旅になったのですね。旅はいかがでした?

楽しかったです。一人旅ですから気ままに歩き回れたこともありますが、行くところはほぼ黄色人種がいなかったですから目立つし、かえって受け入れてもらった印象です。一緒にセッションをさせてもらったこともありました。「mustang sally」「ミッドナイト・アワー」などを旅の途中で歌わせていただきました。この思い出は一生忘れないものになっています。僕の中で一番良かったのは、ニューオリンズです。ニューオリンズは、音楽がどこにいても聞こえてくるんです。ミシシッピー川べりでサックス吹いている人もいる。道端でバスキング(演奏)を洗濯板でやっている人もいる。どこ行っても音楽があって心地よかった。音楽との距離感が日本とは全然違うなあ、と思いました。もっと彼らの生活に入らないといけないと感じていました。もっと、もっとと。それがニューオリンズでした。結局、カーニバルのときも含めて2回行くことになります。旨いものを食べ歩いた印象はまったくないですね(笑)。

その後、あの事件はどうなったのでしょう? 精神的には癒えたのでしょうか?

ちょっと飛びますが、2010年の6月に、僕の思い出のコロラドを家族に紹介したいと思い、久しぶりにデンバーに家族と行きました。「Sushi Den」のシェフだった一番世話になったコバさんという方が、青木さんとよく行った「Sushi Den」を通り過ぎて、コロラドで一番高級なお店が並ぶところ(シャネル等ラグジュアリーブランド店が並ぶ通り)に、独立して「チェリークリーク」というお寿司屋さんを出店されていたので、そこに会いに行きました。すると、コバさんに「お前、すごいタイミングで帰ってきたな」と言われました。コバさんに、「あの事件の2人が4月に釈放されたんだよ」と、伝えられびっくりしました。僕は、家族に僕のもう一つの重要なルーツになったコロラドを紹介したいと、のんきに行ったつもりだったのに、目が覚めるような思いでした。

驚くタイミングですね。

その瞬間に僕は思いました。あの事件から20年、僕は家族を持ち、奥さんと子どもができ人生が動いている。しかし、彼らはあの時間から人生が止まっている。僕はもう、彼らを憎んでいない。湧き出てきた気持ちは、かわいそうだな、と言う気持ちでした。

インタビュー#2へ続く

【プロフィール】
山下剛史氏 TSUYOSHI YAMASHITA
ゴールデン街バー「ACE’S」オーナー、ミュージシャン

大阪府出身。 1990年10月アメリカ留学中に地元ギャングに襲われる事件に巻き込まれ、以後2年間現地アメリカの裁判を被害者として経験。この事件は、ジャーナリスト青木冨美子氏による著作書「デンバーの青い闇―日本人留学生はなぜ襲われたのか」(新潮社刊)に詳しい。
その後、アメリカ音楽のルーツを経験する旅を開始。
1994年に日本に戻ると、演劇集団を設立、バンドと演劇の道に。2003年に友人と新宿歌舞伎町ゴールデン街に、バー「ACE’S」をオープン。2007年より同店オーナーマスター。現ゴールデン街理事。現在、「ACE’S」で日本を含め多国籍の方々と向かい合いながら、アメリカのルーツ音楽を軸としたロックバンド「BLUES NO MORE!!!」で活動中。

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