ファッションビルにメディアを組み合わせた斬新な発想
創業時から変わらない「スタジオアルタ」の理念と
進化するアルタビジョン <前編>

2021.08.12

新宿駅東口駅前にあるスタジオアルタ(現新宿アルタ)は、ファッションビルとしてだけでなく、待ち合わせスポットとしても日々多くの人が行き交う場所になっている。壁面に設置した大型ビジョンと合わせ、かつて同ビルにあったスタジオからオンエアーしていた「笑っていいとも!」などのテレビ番組を思い起こす人も多いのではないだろうか。全国的にも知名度は抜群で、新宿を象徴する場所の一つとなっている。

スタジオアルタの歴史を辿るとその始まりは、日本橋に本店を構える三越と新宿の街の関わりにあることが見えてくる。三越は江戸時代に開業した呉服店をルーツとする、日本の代表的な百貨店の一つだが、1923(大正12)年の関東大震災で本店が罹災した後、買い物の便を図るため、東京市内(当時)8カ所にマーケットを開設した。その一つが新宿(追分交差点そば)であった。

2年後、この三越新宿マーケット改め三越新宿分店が新宿駅前(現新宿アルタ所在地)に新築移転する。1929(昭和4)年に分店から三越新宿店となり、翌年再移転(現在のビックロの場所。三越新宿店はテナント集積型店舗に業態変更後、2012年に閉店)した際、駅前の旧店舗は食料品専門店 二幸となった。そもそも三越が現新宿アルタの場所に移転したのは、甲州街道沿いに面していた新宿駅が、新宿通りを挟んだスタジオアルタの向かいに移設されたことで、界隈が新たな駅前として発展すると見越してのことであったと言われている。実際、スタジオアルタ開業後の昭和60年前後、この場所は地価日本一(国土庁発表データ)になった。

1926年に創業した食料品専門店 二幸。資料提供先、所蔵先:「新宿歴史博物館」

1980(昭和55)年、50年近く営業を続けた二幸に代わって、三越がフジテレビ(ほか一社)と手を組み、新たに若い層に向けて、ファッション・レストラン・情報の3要素を満たしたビルとして開業したのが“情報発信ビル・スタジオアルタ”だ。
新聞各紙も新宿の新名所として、「情報ビルを目指した業界初の試み」「日本ではじめての壁面を使った『ビデオサイン』(電光映像表示装置)」「80年代はあげて情報化時代。その申し子のような『スタジオアルタ』は、高感覚人間の集まる新しい都市、新宿に四月一日オープンする」などと開業の様子を取り上げた。

当時最先端だった大型ビジョンに注目しながら、スタジオアルタのこれまでとこれからについて株式会社スタジオアルタ 営業部メディア営業担当長 井上尚志さんに伺った。

1980年。まだモノクロのアルタビジョン

編集部:
ファッションビルに大型ビジョンという発想はどのように生まれたのでしょうか。

老舗の三越は比較的年齢層が高いイメージがあると思いますが、80年代にそれまでとは違った、より若い人たちを取り込めるような新しいファッションビルを作ろうという構想のもとにフジテレビと合弁会社を設立しました。両社が組み合わさることで、より良いシナジーが得られると考えたのです。
アルタの名は「既存のものにとらわれない」「次に来るべきもの」を意味する「ALTERNATIVE」から付けられました。新たなブランドを立ち上げながらかつテレビというメディアと連携していく、今でいうメディアミックスのような考えを強く意識した展開でした。
開業時の資料には「今、アルタは情報震源地!」「アルタは全身スパイシーなビジュアル媒体だ」など、ビル全体がメディアであるというコンセプトが強く表現されています。

ファッションビルに、ビデオサイン(当時のビジョンの呼び名)、イベントなどを行う1階のデートプラザ、2階のバルコニーステージ、7階のスペースアルタ(スタジオ、テレビ番組などの収録もここで行っていた)などが融合した建物は、それまでにない新しい取り組みだったと思います。ファッションとエンタメを組み合わせて、新宿から新しいものを生み出していこうというのがスタジオアルタの始まりであり、昨年創業40周年を迎えましたが、創業時を知らない社員にも社名が示すその思いは引き継がれています。

1980年のスタジオアルタ店内案内

編集部:
街頭の大型ビジョン自体、発信ツールとしては非常に斬新だったのではないでしょうか。

まだモノクロの「ビデオサイン」として登場し、1992(平成4)年の2代目からカラー放映が始まりました。当時は、広告そのものが時代を示す象徴でもあり、最先端の広告を流すことで時代を感じていただくという考えもあったのだと思いますが、新しいメディアとして非常に物珍しかったと思います。

大型ビジョンの先祖はおそらく、各家庭にまだテレビがない時代に電気屋の前に集まって皆が見ていたような街頭テレビだと考えられています。一方デジタルサイネージのルーツは看板にあって、現在は両者が混ざり合ってきているように思います。
コンテンツを発信したり、それによって人を集めて何かしらの体験を提供したりする点は、まさに昭和の街頭テレビに発想の源があったように感じます。スタジオアルタでもかつてビジョン放映と合わせ、バルコニーステージにタレントが来てイベントを行うとビル前にたくさんの人が集まりました。人を集め、何か特別な体験を皆で共有するといったスタイルは、開業時からずっと続いています。

編集部:
新宿という街の特性、アルタビジョンならではの特徴はどんなところでしょうか。

6070年代の新宿は若者のメッカで、政治をテーマに語り合うような熱い若者が集まってくる場所であったと聞きますし、開業の頃も今よりは渋谷に近いような、比較的若い人が集まってくる街だったと思います。
大型ビジョンは大人数に一斉に、視覚に訴えられるという強みがあります。現在はコロナ禍にありますが、これまでの調査ではスタジオアルタ前は1日約20万人が通行しているので、まずその人数に向けて知っていただくきっかけが作れる媒体というのは、新宿にあるビジョンの持つ価値だと思っています。

アルタビジョンを「一つのステータス」と捉えてくださっている方々も多くいらっしゃり、ありがたく思っています。最近ではカリスマホストでアパレルブランドのプロデュースなどを手掛けられるローランドさんが、新宿アルタにポップアップストアを出店した際「ずっとこのアルタビジョンに出たかったので、夢が叶いました」とメッセージを発信してくださりました。ブランドイメージとして守られているアルタの価値を、この先も大事にしていかなければいけないと思っています。

スタジオアルタというと「笑っていいとも!」のイメージも強くあると思いますが、司会を務められたタモリさんも、放送開始当時は今のような日本を代表するタレントさんではなく、毎日生放送を続ける中で国民的なタレントさんになられた経緯があります。現在もインディーズで音楽活動をされているような方のために、みなさんでお金を出し合えば放映可能な価格帯でのサービス提供も行っています。我々もアルタビジョンを起点に有名になっていただけたらという思いを大切にしています。共に話題を作っていくことでお役に立ちたいと思っているのです。未来の発信者となりうる若者たちを今後も応援していけたらと思っています。

*2021年5月13日取材

関連URL

スタジオアルタ
https://www.studio-alta.co.jp/

(後編に続く)

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