世界各国から観光客が訪れ、昼夜問わず賑わいを見せる新宿。海外からのツーリストにとって、夜になるときらめく靖国通り沿いのまばゆいネオンサインは、大歓楽街の一つの象徴的なイメージになっているのではないだろうか。
そんな現代的な街並みを埋め尽くさんばかりの人たちが、皆同じ半纏(はんてん)をまとって神輿を担いで練り歩く、非常に伝統ある祭りが行われていることは、海外からの観光客はもちろん、日本人でも知らない人が多いかもしれない。しかし一度でも祭りを見たら、歌舞伎町の街並みと昔ながらの日本の風情、そのコントラストにきっと誰もが魅了されるに違いない。
毎年9月に開催されるこの祭りは、歌舞伎町を含め、新宿駅周辺や西新宿エリアを氏子とする新宿十二社(じゅうにそう)熊野神社の例大祭である。西口に建つ熊野神社は、新宿の地に1403年(室町時代)勧請というから、すでに600年以上の歴史を刻んできたことになる。
熊野神社で神職を務める江頭 省(つかさ)さんに例大祭の始まりについて伺った。
神輿(みこし)を担いで周るという今のような形の祭りになったのは、江戸時代後期のことではないかと思われます。それより過去の記述はないのでわからないのですが、8代将軍徳川吉宗公が祭りについて色々とアドバイスを行い、それに伴ってさまざまな場所で神輿を出す祭りが行われるようになったという説があります。
祭りというのは簡単に言えば、神社の誕生日のようなもので、神様に感謝の気持ちを捧げるというのが主体になっています。昔から続いている祭りの形として、和歌山県の熊野では「御燈祭(おとうまつり)」という、御神火(ごしんか)を神社から頂き、その火を家に持って帰ることにより、御神徳を頂けるという意味があるものが有名ですが、新宿も土地柄などから自然発生的に、神輿を担ぐような祭りが生まれ今日に至っているのではないかと思います。
和歌山県にある熊野三山を総本社とする熊野神社は、全国各地に5,000社ほどあると言われているが、そもそも新宿になぜ建てられたのか、その興味深い歴史についてはいずれまた別のコラムでご紹介する。
歌舞伎町を始め、神社の氏子(うじこ)である各町内は睦(むつみ)と呼ばれ、新宿駅の東西にまたがるエリアに13の睦がある。担ぎ手たちが年ごとに「陽の年」「陰の年」と呼ぶ例大祭は、「陽・陰・陰」と3年周期にそれぞれ違った趣向で行われる。最も盛大に行われる祭礼が「陽の年」で、この年にだけ宮神輿と呼ばれる神社の大きな神輿2基が熊野神社から宮出し(神社の蔵から神輿を出蔵すること)され、一つ目の睦を周り、次の町内、また次の町内へと各睦の担ぎ手によって渡されていく。1基が750kgにもなり、100人近い人の手で担がれる宮神輿は、朝9時に蔵出しされ、夜10時の蔵入り(神社の蔵に神輿を戻すこと)まで、実に1日かけて13睦全域を周るのである。
祭りの最大の見せ場ともいうべきこの「神輿渡御(みこしとぎょ)」を取り仕切るのは、各町内で選ばれる「渡御長(とぎょちょう)」である。今回は、歌舞伎町睦で渡御長を40年の長きにわたって務められた佐藤清さんにお話を伺った。
時の流れとともにそんな街のお祭りも姿を変えていったそうですね。
子ども世代が成長して、徐々にみんな郊外で生活するようになったんですね。街自体も自営の商店から、商店を閉め、ビルを建て、貸しビル業のようなものに商売の形態が変化していったこともあって、だんだん祭り自体も街の人による手作り感がなくなってきました。参加者がいないので神輿が持ち上がらない、それで助っ人を頼むようになりました。ちょうどお祭り同好会のようなものも流行り始めていて、そういう方にお任せするようになっていました。町内の人間じゃない、全然違う人が担いで祭りが行われていた、それが40年前くらい(1970年代)のことです。
ちょうどその頃、佐藤さんが渡御長に就任されたのですね。
若手として参加していた側から、初めて主導側に回りました。渡御長は自選ではできなくて、周りからの推薦によって決まります。いつしか私自身が来年は辞めようと思っても、毎年祭りが始まる頃になるとお声がかかりお引き受けするような形で(笑)、2015年に片桐くんが引き継ぐまで約40年、ずっと続けてきました。
初めて渡御長をお引き受けしたころ、私は住まいもずっと変わらず歌舞伎町にありましたから、祭りは、大小関わらず手作り感を持った形で、自分たちの手でやりたいと思っていました。
そこでまず始めに浅草や神田など、祭りという祭りを一通り全部見てまわりました。その印象は、それぞれの祭りごとに特徴がありその形態や行われ方は異なりますが、どこも「街全体」でやっているのだ、という素晴らしい活気を肌で感じたというものでした。
「自分たちの手で祭りを」というのは街に対する思いからでしょうか?
街に対しては、それはそれは大きな思い入れがあります。もともと祭りというのはその地域の内向的な神事なんですね。神様が1年に一度、神輿に載ってその地域を周ることで街を清めていくという意味があるわけです。祭りは街の方々からご奉納いただくところから始まります。ですから人任せではなく街の代表として、お預かりしたものをいかに華やかに盛大に、価値ある使い方をするか。祭りが終わるまでは毎日のように華やかにして、終わったら何一つ残さないようにパッと消えてしまうような、祭りをそんな粋なものにしたい、という思いがありましたね。
渡御長を引き受けられた30代の頃、祭りから遠ざかっていた同世代にはどのように声をかけられたのでしょうか?
「お祭りに行ったら楽しいよ」と、一人一人地道に声をかけるところから始めました。コミュニケーションの場は町会や振興組合が中心になるのですが、私の父の代はうちの町会だけでも180人の組合員がいて、全町会を合わせると1000人くらいはいたのではないでしょうか。
私の代は、サラリーマンや学校の教師をするなどの働き方になり、歌舞伎町から離れ郊外に住んでいた方が多く、組合員数もかなり減ってしまっていましたが、親御さんが亡くなられたりして家業を継いで歌舞伎町に戻ってきたという方たちもいらっしゃったんですね。本当はそうした街の人同士、普段からちょこちょこ顔を合わせてコミュニケーションが取れればいいのですが、それもなかなか難しいので、せめて祭りという行事だけでも、1年に1回だけでもみんなで集まろうよ、とお話ししてまわりました。
誰もがここで育ち、同じ学校に通っていた私の親世代の諸先輩方は、若手の会などもたくさん作っておられたのですが、街の外で育ったものには、なかなかそうした会も敷居が高いんですね。じゃぁ、どうしたらいいか? と考えてまず作ったのが揃いの半纏です。みんなで同じ格好をするところから始めたんですね。無理やり半纏を買っていただいて、着てもらい、和気藹々、とにかくみんなでベタベタして(笑) 楽しければまた次回も来てくれるだろうと。しかし次の祭りまで1年空いてしまう。そこで、その1年の間をいかにうまくコミュニケーションを取っていくか、そんなことを試行錯誤していくようになりました。そして、徐々に街の人の参加が増えていきました。
祭りや街そのものの雰囲気も変わっていきましたか?
家族的になったと思いますね。始めのころは自分たちだけが出て行ってそれで終わりだったんですが、徐々に家族が来るようになって、自分たちの子供や孫も参加するようになりました。子供神輿が始まったのもこの頃です。祭りに参加してから親の仕事を継いだ方もいらっしゃるし、この街でご商売されて街を愛している方が今は数多く参加されていて、今またそれが街の宝になっていると思います。
「陽の年」には宮神輿が周りますが、「陰の年」は町内で行ったり、連合で神輿渡御を行ったりします。13ある睦は、昔の新宿の町名をとって、熊野神社側にある睦からなる「淀橋(よどばし)連合」と、新宿駅東エリアの睦からなる「角筈(つのはず)連合」と大きく二つに分かれていて、連合で神輿渡御が出来るようになったのも30年くらい前からです。昔は各睦同士が見栄を張り合うように、ライバル関係だったこともありました。それが人と人との交流が深まっていくうちに一緒にできるようになったんですね。1年に1回の行事を準備するために次第にまた若手の会がどんどん出来ていって、普段から集まれるようになったことが功を奏したのだと思います。
熊野神社の例祭は、神輿の担ぎ方も非常に珍しいと伺いました。
「千鳥担ぎ(ちどりかつぎ)」といって、四谷の須賀神社の祭りで見られる「四谷担ぎ(よつやかつぎ)」と近い形ですが、今では新宿の熊野神社でしか行われていない珍しい担ぎ方だと思います。
東京では「わっしょいわっしょい」という掛け声の「江戸前担ぎ(えどまえかつぎ)」がよく見られますが、千鳥担ぎは「ちょいさー、ほいさー」の掛け声で、「江戸前担ぎ」のように神輿を大きく揺らさないのが特徴です。また、笛や拍子木(ひょうしぎ)といった音ではなく、「チャンチキ」(=金でできたお皿のような鳴り物楽器を叩く)のリードによって進みます。
足を小刻みに出し、ちょこちょこ進む様子からその名前がつきましたが、千鳥担ぎはとても見栄えがいいんです。「江戸前担ぎ」の神輿は普通担ぎ棒が4本ですが、熊野の宮神輿は6本あって、華棒(はなぼう=担ぎ棒の先端)を肩で担ぐのではなく、首の後ろで受け止めるような形で後ろ手に抑え、真ん中に寄り掛かるようなイメージで腰を曲げずにリズムに合わせ摺り足(すりあし)で進みます。
「江戸前担ぎ」ですと、神輿をコントロールする担ぎ手が前の方でお尻を向けて担ぎ棒を抑えていますが、「千鳥担ぎ」は神輿の前を「さぁ、見てください」と開けるんですね。神輿自体のシルエットもはっきり見えます。神輿の上に載った鳳凰の装飾が揺れないように100人の担ぎ手が「スイっ、スイっと」と担いで進む、これが一番の見どころです。
「陽の年」の例大祭は、隊列が700mくらいになるんですね。今は人力車に乗っていますが、昔は宮司(ぐうじ)が馬に乗っていたこともありました。天狗がいて、町会の高張提灯(たかはりちょうちん)、曳き太鼓、その後ろにはシャンシャンと地を鳴らす手古舞(てこまい)の女性が続き、総代、関係者、山車(だし)ときて、最後に本社神輿がきます。2009年の天皇陛下御即位20周年をお祝いする国民祭典でも、奉祝渡御(ほうしゅくとぎょ:お神輿の練り歩き)があり、十二社熊野神社の宮神輿も全国の神輿の代表として参加しました。
新しく街にできた企業や施設にも声を掛けられ、まさに街全体をあげてお祭りが行われています。
そうですね。2015年に「ホテルグレイスリー」が竣工したので、その年の例大祭には、ホテルの正面玄関を神輿が通るようにルートを組ませてもらいました。
歌舞伎町はそれまでコマ劇場がシンボルとして大きな核になっていたところもありました。閉館して新しいビルできるまでの7年間は、街全体も冬眠状態のようでかつての賑わいもなかったのです。東宝ビルが建ち、テナントとして「ホテルグレイスリー」も入られたことで、新しい街のシンボルとして応援しようと担ぎ手に集まってもらって神輿を出したりパレードをしたりしたんですね。長くいらっしゃる方も新しく街の仲間に入られた方も、職種も何も関係なく、街全体を巻き込み盛り上げていくためにも「祭り」は大きな役割を持っているのだと思います。
片桐さんが渡御長を受け継がれました。これからの例大祭への思いをお聞かせください。
歌舞伎町も、片桐くん、柴本くんのような若手がみんなで今、祭りを引っ張ってくれています。私も渡御長を長く勤めてきましたが、祭りを動かす、祭りを仕切るというのは男冥利に尽きるというか、終わってみると毎年素晴らしい感動があるんです。祭りは滞りなくうまくいって当たり前、終わるまでは緊張もしますし気合が入っていますが、無事に終われば、若手も先輩も仕事も何も関係なく、本当に一同、安堵のため息が出ます。
歌舞伎町の街自体、商店街こそなくなってしまったけれど、今でも歓楽街でありながらやはりどこにでもある下町なんですね。神酒所(みきしょ)も奉納版(ほうのうばん)も設置して、昔やっていた通りに祭りを行っています。歓楽街に神酒所があるという光景自体、珍しいのではないでしょうか。街全体が頑張っている姿を町内にも町外にも伝えるには祭りは本当にいい機会なんですね。
祭りという共通して皆と会える場所、参加できる場所を作っておくと、街への愛情も生まれます。だから今後は年に4回、5回と何か集える行事を考え行っていければと思っています。
歌舞伎町は本当に「味わいのある街」なんですよね。一時は、なんとなく怖い、危険というイメージがあったこともありますけど、街自体は芯がしっかりしていてアットホームなんだということを、祭りを通して知ってもらえたらと思います。最近は、この街の第一線でご商売されている方達が、自分たちの街の祭りとして、自然体で集まれる場として賑わいを見せているのが一番嬉しく思います。今後も若手が頑張って素晴らしい例大祭を続けられると思うと楽しみですね。