現代美術・水墨画家 長坂真護さん
インタビュー #1

2018.02.19

乗降客数百万人を誇る新宿駅南口に直結したファッションビル「Flags(フラッグス)」の外壁に設置された大型デジタルサイネージ。煌々と街に向かって映し出される映像は、恐らく数限りない人々の目に日々留まっているに違いない。

2016年9月からこのスクリーンで放映されているイメージCMに、自身がデザインしたシャツを身にまとい、背丈を超える大きな越前和紙を前に、墨と筆でエネルギッシュなライブペインティングを繰り広げる一人のアーティストが登場する。2017年にはハリウッドでオスカー賞の前夜祭「Oscar VIP Gift Lounge」に出展し、日本人初となるライブペインティングショーを披露するなど、今や世界を活動の場とし、日本で最も影響力のある芸術家の一人といっても過言でない長坂真護氏だ。
彼と「新宿」は切っても切れない深い縁に結ばれていた。かつて新宿で、夢に一度、二度と挫折し、失意の中、新宿の路上でただ1人始めたライブペインティング。絵を描くことだけは辞めなかったという当時の彼には、新宿の街中の大型スクリーンに繰り返し自分の姿が映し出され、自らの絵がこんなにも世界に影響を与えるような未来が来ようとは、まるで想像がつかなかったのではないだろうか。新宿のストリートから長坂氏が夢を叶えるまでの軌跡を聞いた。


福井出身だと伺いましたが、新宿の街とはどのようにして出会ったのでしょうか?

地元で工業系の高校に通っていて、卒業後は就職する人が多かったんです。でも、就職が決まって喜んでいる同級生を見ると「まるで人生そこで終わるんじゃないか、悲惨だな」っていう感覚に陥って。今でも恩師に会うと「あの当時から君は『絶対就職しない』と言い切ってたね」なんて言われます(笑)

小さい頃から、「世の中が発生している理由は何だろう」などと考えるのが好きなところはありました。まぁ、考えても漠然としていて、頭が痛くなるようなテーマなんですけどね。当時バンドもやっていて歌手になりたかった。それなら絶対東京に出て、東京で住む場所といえば「新宿」だろうと、田舎者の発想で上京したのが最初の出会いです。

洋服を買うのも大好きだったので「文化服装学院」に進みました。親への「口実」です。電車通学したくなくて、自転車でも通える西新宿で生活を始めた頃はとにかく上ばっかり見ていましたね、都庁とか建物全部が高くて。

どんな学生時代だったのですか?

もともとデザイナーになりたいなんて全く思ってなかった。適当にさぼって、バンド組んで活動しようと思っていたんですけど、気がついたら洋服という物づくりにのめり込んでいました。

最初の課題が期限内に提出できず、「それなら学校辞めなさい」と言われ、これまでのような甘えなど全く通用しないのだと気づきました。それからは3年間皆勤賞、当時全国コンテストも7つくらいありましたけど、いろいろ賞にも選ばれるなど、自分でも意外なほど、本当に夢中になってがんばりました。

卒業後に進んだ道は、デザイナーではなくホストと伺いました。何かきっかけになるようなことが?

子供の頃からなんとなく絵を描くのは好きだったし、学校でもデザイン画などたくさん描いていました。でも「絵描き」という職業が、お金を得て社会的に生きていけるものだという認識は全くなかったので、なろうと思ったことは一回もなかったんですよね。

ただ、卒業を迎える頃には、ヨーロッパに留学したいなと思って。金銭面を考えると自分は母子家庭だったので、受賞すればロンドンに1年間無料で留学できる「神戸ファッションコンテスト」に応募しました。

全国から集まった応募者の中から最後の4人に残って、自分でもすごく自信があったし、もう「絶対選ばれる」と思ってましたね。3体作品を作り、ファッションショーとプレゼンテーションを行う最終審査では、ライブペインティングもしました。

現在の片鱗をうかがわせるエピソードです。なぜその場でライブペインティングを?

2018年新宿にて2017年10月新宿にて
たぶん僕は「アート」が好きというのもあったし、思い返してみると「僕は才能の塊だ」と示すためのプレゼンをしたかったんじゃないかな。周囲にも「あなたに決まりね」という雰囲気が漂い、当然のようにロンドンに行くのだと、卒業間近になっても就職活動も何もしないでいました。しかし最終発表で僕は落ち、奇しくも同じ学校で隣の席だった男子学生が選ばれました。これは大きなターニングポイントになりました。

電話で母に「(落ちたけど)俺、才能あるから留学させて欲しい。お金出してくれるよね」と泣きついたら一蹴されて。「あなたみたいな天狗は見たことがない。コンテストに落ちたのもあなたの現実だから、お金は一円も出さない」と言われ、上京して3年、初めてポロっと涙が出ました。

でも、今まで燃えなかった新しい情熱がわき上がってきましたね。親でも社会でもない、人生は自分こそが切り開いていく、まさにその岐路に立っているのだと気がついたんです。どんな手段を使っても「金を稼いでやる」とい奮い立ちました。

それがホストクラブの門をたたくきっかけにつながったんですね。

歌舞伎町はすぐ近く。当時、テレビの特集でホストの新人の給料を目にして「これなら数ヶ月働けば留学資金が貯められる」って思いましたが、現実は全然違いました。

始めはもう家賃すら払えない。最初についたお客さんも支払日にはいなくなる。結局社会人2カ月目にして売り上げのツケ50万、人生初の借金を抱えました。「本気でやらないと生きていけない」と痛感して、がむしゃらにがんばって、半年後にはナンバー2に、その翌月にはナンバー1になりました。売り上げも指名本数も両方1番、それを一年間続けてホストは辞めました。

成功したホストの道には残らず、やはり夢だった海外へ?

それが思いのほかお金が貯まってしまって。50万円の借金に始まりましたが、最後には年収にして3600万円ありました。それで留学のほかにもう一つやりたいと思っていたアパレルの会社を起業することにしました。そんなに稼いでなかったらきっと留学していたかもしれません(笑)

ところが23歳で立ち上げた会社は、一年くらいで潰れ、あっという間に稼いだ分を使い果たしたどころか、今度は負債も1000万円抱えることになりました。「僕はなんでも出来る」ってどこか過信していたんでしょうね。お金も自分自身も失い絶望的でした。でも必死に考えて、「人間力が足りなかった自分の責任。だから人のせいにするのはやめよう」と。そして「逆に考え方を変えて、お金が一円もなくても人がついてくるような生き方をしてみよう」と思い至りました。「クリエイティブなことは辞めない。そのプライドだけは絶対捨てまい」というのが、僕が出した一つの結論でした。

20代で抱えた多額の負債、絶望、次の一歩はなかなか踏み出すのが難しそうです。

「絵を描こう、路上でライブパフォーマンスをしよう」と考えました。絵は、紙とパネルさえあればできますから。大失敗して借金だらけで、仕事もゼロ、人に会うのすらいやでした。それでも定期的に路上に出て、あえて人前で描こうとしたのは、そうでもして「何か」を自分に科したのです。初日は本当に緊張の中、東口アルタ前に立ち、過去の自分、かつてホストをしていた歌舞伎町に背を向けるように始めました。ホスト時代のスーツで正装してね。路上の絵描きってチープなイメージがあったんですけど、それはいやだなと。だから「ポストカード買って下さい」みたいなことも一度もしなかったです。

周囲の反応はどんな感じでしたか?

最初はほんとに数人です。同じ頃、お金もないのに「光岡」っていう自動車を一目惚れして買ってしまったんです。ローンもガソリン代も払えなくて相当後悔しましたけど、おかげで車に画材を積んで、福井や大阪、名古屋、京都など日本のあちこちをまわって描きました。土地も変われば人も変わるし、300人くらい一気に集まる日もありました。

描いていたのは「美人画」と呼んでいた女性の絵ばかりです。その頃から「墨」を使っていました。何より安いし、一色で表現できるから自分に合うと感じていました。たまたま入った和紙屋さんで「越前和紙」と出合い、自分の故郷、福井の和紙なら使ってみようかと思って。地元愛ですよね(笑) それが「水墨画」を描くようになった始まりです。

自分に科した路上パフォーマンスで、次の人生のステップが見えてきましたか?

口コミでだんだん広がった2010年のある日、福井県庁から「福井県立恐竜博物館のPRをしたい。水墨画で恐竜が描けるか?」と連絡がきました。描いたことなんてなかったんですけど、「もちろん描けます」と即答。受けてから悩むんです、期限はたった2週間しかない!って。

恐竜そのものでなく骨格を描いたのは、それが水墨画で竹を描く技法とほぼ同じだとひらめいたからです。水墨画で恐竜の全身骨格を描いたのは僕くらいしかいないと思うんですけど、それがオリジナルテクニックになって、今でも1000人くらい集まるライブペインティングなど、描く機会が結構あります。

描き上げたらすごく評判がよくて、これがまた幸運を呼びました。その年、学生時代にいつか出たいと思っていた憧れの音楽フェス「サマーソニック」の事務局の方に声をかけてもらったんです。毎年10名のライブペインターを選出している「ソニックアート」というアート部門の候補の1人に推薦されて、「俺は何があってもここに選ばれる」って決心しました。

自分から何かアクションを起こされたのですね。

まだ決まってもいない前から、地元のテレビ局、新聞社に「サマーソニックに選ばれたから特集を組んで欲しい」とプレゼンをし、紙面での特集やドキュメンタリー番組の製作を確約してもらいました。一方サマーソニックには、「ドキュメンタリー番組が放送されれば、200万人以上が(ソニックアートでの)僕のパフォーマンスを目にすることになる」とデータと資料を用意してアピールする。そうして夢をつかみ取りました。選出されてすぐ「参加者で自分が最年少出場者」かどうか聞きましたよ。実際、僕が最年少のペインター。それは当時の僕にとって最高のクレジットでした。一つ一つ、次のステップへとつながっていきました。

「ソニックアート」からつながって、その後はレコード会社の有名プロデューサーと知り合い、新人バンドのアートワーク&デザイナーとしてレーベルのロゴを手掛けるほか、渋谷東急文化村ギャラリーでの個展、NHK「頭がしびれるテレビ」のアートワーク&デザイン担当など大躍進されました。夢がかなっている、そんな実感がありましたか?

25、26歳とさまざまな雑誌に取材してもらって、テレビでも「アートワーク&デザイン長坂真護」と全国にテロップが流れる。でも僕はそういうことが重なるたびに悲しい気持ちになりました。

「こういうことを目指してがんばってきたのか?これがずっと続くことを自分は望んでいるのか?」と自問自答してみる。僕はそれが望みではなかったし「自分はまだまだ絵がうまくない、知り合った人のコネで絵が評価されてもうれしくない」と感じました。それで「アートっていったらニューヨークだ」と考えて渡米することにしました。海外に出ようと思った最大の理由は、日本だと口が立ってしまって絵が育たないこと。海外に行けば英語は話せないし、コネもない、自分の絵が育つんじゃないかな、と思って。

お金はないので、チャンスは福井のアートコンペティションのみ。1位に選ばれ「100万円(使い道は海外武者修行のみ)」の賞を手にニューヨークへ渡ったのが29歳の時でした。

インタビュー#2へ続く

【プロフィール】
長坂真護氏 NAGASAKA MAGO
福井県出身

2009年 自ら経営する服飾会社が倒産、金も自信も失ったMAGOは路上の絵描きになった。後に福井県立恐竜博物館とタッグを組み東京ビッグサイトにて地元名産「越前和紙」を使い、前人未踏の恐竜全身骨格、幅8mの巨大水墨画を即興で披露すると、2010年 史上最年少でサマーソニックのアート部「SONICART」に出場。その後NHK総合「頭がしびれるテレビ」の絵画を担当した。MAGOは模範的な水墨画の脱却を図り、2013年にNYへ渡米し現代美術を、翌年には渡仏し西洋美術を学び帰国。
2015年 西洋美術と現代美術を組み合わせた作品、「無精卵を被る女」を発表。これがヒットし東京日本橋にアトリエを構る。同年、水墨画と陶芸を組み合わせた個展「美の真相」を上海にて開催。その期間中11月13日にパリ同時多発テロが発生、テロ直後のパリを訪問し、「芸術で世界平和をする」と決意。満月を平和のシンボルと定め「世界平和の満月」を制作。「満月は世界の淀んだ空気を清浄化する空気清浄機」と述べ、「誰もが、どこからでも満月を見ると心の中が和み、私たちの心は一つになる。」と提言した。
2016年9月1日、新宿駅隣接の有名なファッションビル「Flags」とMAGOがコラボし巨大ビジョンでのCM放送開始。新宿駅は利用者数世界一、MAGOはこのCMでライブペイント、衣装デザイン、CMの作詞作曲、歌手を担当。前代未聞のCMで今日も新宿に訪れる人々を魅了する。同年ファッションブランド「HEMDby MAGO」をスタート。彼の手がけるファッションはアート作品と連動し、渋谷MODI、有楽町マルイ、新宿マルイ、恵比寿三越、横浜高島屋にて世界平和をコンセプトに個展及びショップを展開した。さらにその冬、新宿フラッグスに新宿フラッグスにて「世界が一つになれる夜」をテーマに世界平和のクリスマスアートツリーを発表。
翌年2017年MAGOはアメリカのZatik Natural Skincare Lineのアートディレクターに任命され、ハリウッド、オスカー賞の前夜祭2017 Oscar VIP Gift Loungeに出展し、日本人初となるライブペインティングを披露。同年5月にはLAのトヨタ美術館で展示会を開き「芸術で世界平和と環境保全の創造をする」と公言。そして6月アフリカ、ガーナにある世界の電子機器の墓場、死に汚染されたスラム街と言われる「アグボグブロシー」を訪問。その現地の廃棄物を再利用した環境保全を目的としたアート作品「WEARESAME」発表。自分の芸術は何人を救えるのか?と、「世界平和と環境保全の創造」をスローガンに掲げ、今もなお日本のみならず世界各地で講演や作品展を行う

 関連リンク 
「NAGASAKA MAGO」 http://artistmago.jp/pg47.html

Editorial department / 本文中の本アイコンは、
歌舞伎町文化新聞編集部の略称アイコンです。

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