江戸時代半ばに「内藤新宿」として新たに開設された宿場町から歴史が始まる新宿。長らくその中心地であったのは現在の新宿三丁目付近であったが、街の景観は交通網の発展と共に変化を見せる。新宿も明治時代、当時の中心からは場末ともいえる離れたエリアに新駅が開設されると物資や人の交流の起点として、駅前エリアは多大なポテンシャルを持つようになり、徐々に新興の繁華街として成長を遂げる。駅開設と時を同じくして創業した新宿高野をはじめ、中村屋、武蔵野館は、早くから駅前の発展を担ってきたといえる老舗だ。
しかし、第二次世界大戦の終戦を迎えた街は一変していた。一部の鉄筋コンクリート造の建物を除いてその多くが燃え、辺りは一面焼け野原と化したのだった。その荒れ果てた風景から戦後復興の過程の中で、どのようにして現在我々が目にしている街の姿が生まれ、出来上がってきたのだろうか。現代の新宿の街の成り立ちを考えた時に重要な鍵となるのは、駅前を中心に仮設的に立ち並んだ「闇市」の存在であったと聞き、建築史・都市史を専門に都市の形成を研究されている東京理科大学工学部建築学科・石榑督和(いしぐれまさかず)助教にお話を伺った。
東京の街というのはとりわけ1970年代以降に「捉えられないカオスみたいな都市だよね」という言葉で語られたところがありますが、実際、高度経済成長を経験する中で急激に都市景観が変化しています。これをカオスと漠然と捉えるのではなく、空間的・物理的に読み解いていくことが私の研究の目的の一つです。
戦前、交通機関の発達とともにターミナル化する駅前には、広場や街路を造るなどの基盤整備が計画されていました。それが戦争によって新宿に限らず、あちこちの駅前は、交通疎開空地(戦中期、爆撃から避難してきた人たちで混雑しないよう駅前の木造建築を撤去し空地にした)や焼け野原となります。終戦するとすぐ、こうした空間に仮設的な闇市が開かれていきます。今私たちの目に見えている街の姿というのは戦前からの都市計画を引き継いだ「戦災復興土地区画整理」が基盤となっていますが、これが整備される過程は、戦後の闇市を整理していく過程でもあったと言えるのです。
新宿の街の成り立ちには「闇市」の存在が大きく関わっているということですね。
戦前期にも商店街が出来てきていましたが、同時に露店も並んでいました。常設店舗としての商店街と、その商店に向かい合う形で歩道空間に並んだ露天商が、この頃の商業空間を構成していました。戦後の新宿で特徴的なのは、戦前から新宿周辺の縁日などで露店を出していた尾津組、野原組、和田組、安田組という4つのテキ屋と呼ばれる人たちが、エリアを分かちながらそれぞれに活躍し、街の復興に大きく関わっていったことです。
「テキ屋」というのは、自分で所有していない土地を縄などで地割り(地面を区切ること)し、仮設的に商業空間化して、さまざまな露天商たちをその地に入れ、場所代を得ることなどを生業としていた人たちのことを言います。彼らは一般的な商業活動がまだ動いていない戦後まもない駅前の土地で露店営業の地割りを始め、自然発生的に出てきて立ち売りしているような商人たちをこの区画に入れ統制していきます。中でも尾津組は軍需産業の中で鉄兜を作っていた工場に鍋を作らせるといった、製品開発のようなことまでして人々が求める物資を手に入れ販売をしていた、カリスマ的なテキ屋だったようです。
いわゆる後の「経済白書」にあたる資料の1947年版を見ると、東京の人々の主食消費量のうち公定価格で購入できたものは約56%、闇値で購入したものは約43%と記録されています。闇市の存在がなければ人々はあたりまえに生活することすら難しく、テキ屋が担う闇市が街の復興の一端を担っていたことがわかります。(価格的に換算すると一般消費者が支払う公的価格分の支払い15%に対し、闇値価格に対する支払いは85%に昇ったという)
その後の街づくりに強く影響を与えることになったのは、どういう経緯があるのでしょうか。
新宿の東口エリアでは警察から一時的な利用許可を得た上で、尾津喜之助(尾津組)が終戦直後の1945年8月20日(本人弁)に、「光は新宿より」というキャッチコピーを掲げた闇市「新宿マーケット」を開きました。現在の中村屋からビックロ辺りの新宿通り沿いです。(移動店舗のような「露店」に比べ、「マーケット」は通路が設けられ、複数の店舗が建ち並んだバラックのような建物)
彼らテキ屋組織は戦中期から、空襲を受けた際に瓦礫を整理したり防空壕を掘る手助けをするなど警察のバックアップをする存在で、テキ屋と警察はかなり近い関係性を築いていたこともあり、当時のテキ屋の開いた闇市は不法占拠ではあるものの、そこに開設された露店は「復興のためにも必要」と公的機関からの働きかけさえあったというテキ屋の発言も見られます。
同年10月には東京都の斡旋で「東京都露店商同業組合」という組織も出来上がります。その理事長に就任したのも尾津喜之助です。戦後の盛り場を警察自体がなかなか統制できない状態の中で、この組合の支部を警察署の管轄ごとに置くことで、行政が間接的に統治しようとしたことが伺えます。1948年頃になると、駅前には尾津と近しい関係にあった野原組がマーケットを建設します。
しかしこれらの闇市が成立していたのは4〜5年と短期的なものでした。行政による「戦災復興土地区画整理」によるこうしたマーケットの整理や、GHQの命を受けて1949年に行われた「露店整理事業」(東京全体で公道上から露店を全てなくす施策)により、徐々に闇市は消えてゆき、私たちが今見ているような新宿の都市空間へと変わっていきます。
経済的にも安定的な社会が取り戻されていくにつれ、警察も半ば表の顔として土地を仕切っていたテキ屋を排除していくようになり、土地の権利が本来の地主へ返還される動き(疎開空地として都が買収した土地は元の所有者に売却)が起こりました。
この整理事業の中で問題となったのは、当初木枠にヨシズを載せただけのようなものであった露店が、徐々に建物化(木造屋根付き)していたことです。テキ屋はそれらの建物を建て転売していました。建物を購入した建物所有者は自分たちに所有権が、また営業者は営業権や占有権があると主張しました。こうした権利を「戦災復興土地区画整理」は認めながら進み、土地を持たず仮設的に存在していた彼らを、行政は新宿の街に取り込みながら街を再生していくことになるのです。
マーケットや露店整理はどのように進められたのですか?
新宿駅周辺の闇市に関して最初に整理されるのは、現在「武蔵野館」が建つ周辺から甲州街道方面までに建設されていた和田組のマーケットです。尾津の弟分と言われる和田薫が率いた和田組マーケットは、駅に近い方は1間(1.8m)四方ほどの店が細長く繋がっており、中には飲み屋が多くありました。10日単位で貸し出されている北側の区画、その奥にはもう少し広い賃貸の区画、さらに奥には建売店舗の区画が並んでいました。
1950年行政は、まず隣接した空き地に新築のマーケットを建て、そこへ和田マーケットの一部(駅寄り部分)を集団移転させることで暫定的に駅前広場を創出します。続いて、マーケット中央の営業者を花園神社西側へ集団移転させます。これが今の「ゴールデン街」の北側部分となりました。実は「ゴールデン街」は北側と南側とで建物の形態が違うのですが、南側は新宿二丁目の遊郭周辺にあった露店が移転してきたものです。移転後も売春も行っていた南側はお客さんがいたようですが、飲み屋のみの営業が多かった和田組の店は駅から離れたため商売が成り立たず空き店舗も目立ち、やがて南側の店舗に買収され「ゴールデン街」一体は青線地帯となっていきます。
時を同じくして、露店整理事業により新宿通りの露店(と新宿のほかのエリアで営業していた露店)400軒が「新宿商業協同組合」を結成し、伊勢丹の西側(現・伊勢丹メンズ館)に「新宿サービスセンター」というビルを建て移転します。これはかつて都電の車庫があった都有地の払い下げを受けたもので、今までバラバラに露店を営業していた人たちが百貨店をやろうと計画して集まったものです。食料や雑貨のほか、屋上には遊園地、ストリップ劇場に貸し出した小屋などもある一風変わった建物でした。しかし、経営的にはうまくいかず、開店して三年で京都から関東進出を狙っていた「丸物百貨店」が買収します(これもうまくいかずその後伊勢丹が買収して現在に至る)。
このように、行政が新しい土地を用意し徐々に移転させながら、闇市を起点とする露店やマーケットを整理することで、更地を創出し、駅の改築に続き駅ビルを建設、また広場や地下街などの街区が再編され現在に至る都市の基盤ができてきたわけです。
(後編に続く)
(モノクロ写真)資料提供先・所蔵先 新宿歴史博物館
石榑督和(いしぐれ・まさかず)/東京理科大学工学部建築学科助教
1986年岐阜市生まれ。2009年明治大学理工学部建築学科卒業。2014年同大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。明治大学助教を経て、2017年より現職。2021年より関西学院大学建築学部准教授着任予定。著書に『戦後東京と闇市』(2020年日本建築学会著作賞)、『津波のあいだ、生きられた村』、『PUBLIC PRODUCE 「公共的空間」をつくる7つの事例』ほか。