新宿街史4

2018.10.19

「十二社熊野神社」創建の歴史 中野・新宿西側一帯を切り開いた一人の男の物語

本サイト「Special2」では新宿の西口エリアに建つ「十二社(じゅうにそう)熊野神社」が秋に行う例大祭についてご紹介した。歌舞伎町という一大歓楽街で行われている、昔ながらの神輿渡御(みこしとぎょ)の模様など、ぜひ一読していただけたらと思う。

実は歌舞伎町エリアは、十二社熊野神社のほかに、花園神社、稲荷鬼王(いなりきおう)神社も一部区域を氏子(氏神信仰し神社の祭祀圏を構成している人々のこと)としている。歌舞伎町一丁目の大部分は十二社熊野神社の氏子だが、旧三光町と呼ばれていた一丁目の一部は花園神社の、そして歌舞伎町二丁目は稲荷鬼王神社の氏子エリアなのである。

昭和40年頃、現十二社通り。左が熊野神社。昭和40年頃、現十二社通り。左が熊野神社。

3つの神社の成立時期を見てみると、大和吉野山より勧請されたと言われる花園神社は、徳川家康が江戸に入国した1590年にはすでに存在していたとされているが、創建については詳らかでない。稲荷鬼王神社は1653年、大久保村に勧請された稲荷神社と、熊野から勧請されていた鬼王権現を1831年に合祀(ごうし:一つにまとめて祀る)した神社である。

総本宮 熊野三山

江戸時代前後に創設された両神社に対し、十二社熊野神社の創建は室町時代までさかのぼる。熊野神社といえば、総本宮は紀伊半島南部にある熊野三山~熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の3つの神社の総称~である。全国にある熊野神社は、祭神である熊野権現(くまのごんげん)を勧請した神社であり、3000以上存在する。

熊野という地名の「熊」は「奥まった地」を意味する「隈(くま)」に由来するという。出雲では神々の死を「八十(やそ)くまでに隠りましぬ」と表し、「くま」は冥土の古語であるとも言われている。

初めて熊野の名が登場する「日本書紀」には、伊勢の天照大神の母神が祀られた国と記されているが、奈良時代始めにはこの山深い一帯はすでに聖地とされ、多くの修験僧が山林修行の地とし、またさまざまな霊力を得る場所として伝わっていた。

平安時代に、浄土信仰が広まると熊野三山はこの世の浄土と見なされ、巡礼「熊野詣」が盛んに行われるようになった。皇族、貴族の熊野詣には修験僧「山伏」が案内を務めたそうだ。室町時代になると、皇族などの上流階級に代わって、武士や庶民の参詣が広まる。

江頭 省さん江頭 省さん

新宿の十二社熊野神社創建にはどのような歴史があるのだろうか。熊野神社で神職を務める江頭 省(つかさ)さんにお話を伺ったところ、「鈴木九郎という人が、室町時代の1403年に勧請したと言われています。熊野三山の御祭神は十二柱の神々(神は一柱と数える)で、合祀したものを「熊野十二所権現」と呼び、これを祀ったのが始まりです」と説明してくださった。

調べてみると「中野長者」と呼ばれていたこの鈴木九郎は、十二社熊野神社勧請にまつわるいくつかの伝説を残す人物であった。

江戸時代に内藤新宿が誕生して「新宿」の名が誕生するはるか昔、十二社熊野神社が建つ新宿西側一帯は、豊島と多摩との境にある一面の原野で、「中の野原」から転じ「中野村」と呼ばれていた。

九郎の祖先、鈴木家は紀州藤代(白)で熊野三山の祀官(しかん)を務める家柄だった。和歌山県海南市にある藤白町は日本に数多くある名字「鈴木」の発祥の地でもあり、熊野から移り住んだ鈴木の姓を持つものが、熊野信仰の普及に務めたと言われている。

祖先が源義経に従い、奥州平泉、東国各地と出かけた先で戦死して以降、没落の一途をたどっていた鈴木家。そこで九郎は紀州を出て、同郷の移住者の多い港町を経由し、さらに奥地武蔵野へと向かい、まだ人もあまりいなかった、すすきに覆われた場所(現在の中野坂上から西新宿辺り)に住みつき、ここを開墾したのである。

昭和42年、道路整備工事が行われる熊野神社周辺。昭和42年、道路整備工事が行われる熊野神社周辺。

九郎についてはこんな話が伝え残されている。馬飼いの仕事をしていた九郎はある日、下総(葛飾)に立った馬市に馬を一頭売りに行き、一貫文(現在の約20万)を受け取った。その銭は当時流通していた中国製の貨幣で、すべて「大歓通宝」と書かれたものだった。これを見た九郎は神からのお告げだと心打たれ、帰り際、浅草観音に詣ですべてを奉納してしまう。無一文で帰り着くと、家は黄金で満ちあふれ、九郎は多額の富を手に入れるのである。

これは熊野三山の恩恵だと感じた九郎が、家から少し離れた森の中に建てた神社が、今日の十二社熊野神社である。紀州、熊野の若一王子権現を勧請した九郎だったが、その後も財宝は増え続け、いつしか中野長者と呼ばれるようになった九郎は、熊野三山の十二所権現をすべて祀った。

滝や池を有したかつての姿

角筈熊野十二社俗称十二そう(江戸名所図会)角筈熊野十二社俗称十二そう(江戸名所図会)

この神社の様子を描いた錦絵に江戸時代、二代歌川広重が描いた「江戸名所図会」の中の一枚「十二社の滝」がある。この滝は、神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け作られた神田上水助水掘が、熊野神社の東端の崖から落ちるところにできたものだそうだ。

滝のほかには、1606年に田畑の用水地として開発された大小二つの池もあった。江戸後期、享保年間には池のほとりに多数の茶屋がたち景勝地として賑わっていた。明治以降になると大きな料亭も並び、最盛期には料亭・茶屋が約100軒、芸妓約300名を擁した一大花柳界として知られ、それは華々しい場所だったのである。

昭和42年、十二社弁天池。昭和42年、十二社弁天池。

池に関連して、九郎にはその後のこんな伝説もあると江頭さんはお話しくださった。九郎の一人娘が蛇に変わりはて、熊野神社脇の池に入水し命を絶ったという話である。

実は九郎、あふれ湧く財宝を、日夜人を雇っては人目のつかない場所、現在の新宿中央公園周辺の地中に隠すよう埋めさせていた。そして秘密が明るみになることを恐れ、帰り道に人夫たちを切り殺しては川に投げ捨てていたのである。この川にかかっていた橋は、現在青梅街道上に残る「淀橋」であるが、当時「姿見ずの橋」「面影橋」などと呼ばれていたのは、この九郎の伝説による。

そんな九郎のもとに生まれたのが娘の小笹である。美しく育った彼女だったが、いつの頃からか全身に鱗が生え、やがて大蛇の姿となったのは九郎の悪行の報いだったのだろうか。

小笹の婚礼の夜、家から大蛇が飛び出すと辺りは大雨となり、その水は十二社まで流れて大きな池を作った。小笹が池に入水し命を絶った後も毎夜、蛇の姿で現れるのを悲しんだ九郎は改心し、仏の道に帰依したという。

四谷角筈十二そうのゝ社 (江戸名所図会)四谷角筈十二そうのゝ社 (江戸名所図会)

中沢新一の著書「アースダイバー」によれば、かつて九郎は現在の成願寺(中野区本町)がある場所に寺を建てそれを住まいとし、自身も在家のまま修行者となって神官とも山伏ともつかない格好をしていたという。熊野神社一帯が「角筈(つのはず)」と呼ばれていたのは、こうした古い修行者(シャーマン)が手にしていた、先端部に鹿の角がついた杖のことを「角筈」といったことに由来している、と中沢氏は書いている。

九郎の墓もある成願寺は十二社熊野権現社の別当(宮司の長官)も兼ねていたが、明治時代の神仏分離で、別々のものとなった。

これが十二社熊野神社の、そして内藤新宿からさかのぼって、この新宿の地が誕生した歴史の一端である。十二社の池は昭和初期、続く第二次世界大戦中に完全に埋め立てられ、滝も淀橋浄水場の工事などで埋め立てられた。

昭和42年、埋め立てられる直前の弁天池の様子昭和42年、埋め立てられる直前の弁天池の様子

芸能とも縁のあった熊野神社

現代の十二社熊野神社は、大都市新宿にありながら緑あふれた中央公園に隣接し、公園でラジオ体操をする人々が立ち寄ったり、近隣の会社の人々がお参りしたり、近隣のホテルに宿泊する外国の観光客や、午後には小さい子ども連れの姿も見られるという。

江頭さんの後ろに見えるのが本社御輿(御輿蔵にて)江頭さんの後ろに見えるのが本社御輿(御輿蔵にて)

また、江頭さんによれば十二社熊野神社は江戸三大歌舞伎と言われた江戸三座の一つ、市村座がお参りしていた神社でもあったそうだ。「江戸時代、『十二社(そう)』は言葉遊びによって『十二相』と展開され、そこから12の顔を持つ神様、すなわち芸能の神様を祀った神社だと信仰されて、芸能に所縁のある方々も多くお参りに来られたのではないでしょうか。当時の市村座で人気を博した若手歌舞伎役者が奉納した大絵馬『七人役者図絵馬』も拝殿内に掲げられています。今でもダンスやお笑いなどに関係する方々がお参りに来られることがあります」と江頭さん。

熊野詣は古くから芸能とは縁が深い。熊野三山では1152年に鳥羽上皇が初めて芸能関係者(楽人、舞人)を随従したという記録も残っている。熊野に参詣する道すがら、舞や神楽、相撲などさまざまな芸能が神仏を楽しませる法楽として行われたそうだ。

「自分がこちらで神職についた当時にお宮参り、七五三などを通して出会った子どもたちが大人になり、また神社で再会できるのはとても嬉しい」と江頭さん。街の変化を知るために、時間があれば新宿の街を歩いたり、近隣で食事をしたり遊ぶこともあるという。また「新宿コマ劇場の舞台のお祓いも行っていましたし、街の移り変わりも見てきました。東宝ビルが出来、VR施設など夜の飲食店だけでなく、昼間も人通りの多い面白い街に変わってきた印象があります。歌舞伎町で行われている歴史ある例大祭は、まだ沿道でご覧になっている方の中には知らない方々も多いのですが、大きな歓楽街の中で続けられている伝統的な行事として、これからも楽しんでもらえたらと思いますし、街の皆さん、お店の方々とも協力して長いおつきあいができればと思っています」とその思いを語る。

伝統ある神社の、そして歴史を重ねながら未来に進む街の様子を見守りつつ、この新宿街史では、もう一度江戸時代に戻って新宿の歴史をたどっていこうと思う。

    参考文献
  • 「熊野古道を歩く」 高木徳郎 吉川弘文館
  • 「熊野詣」 五来重 講談社学術文庫
  • 「熊野古道」 小山靖憲 岩波新書
  • 「アースダイバー」 中沢新一 講談社
  • 「中野区史跡散歩」 中野区史跡研究会 学生社

モノクロ写真
 資料提供元・所属先 新宿歴史博物館

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