新宿街史5 内藤新宿の復活

2019.05.29

これまでこの新宿街史のコラム1、2で辿ってきた宿場町「内藤新宿」の歴史。少し寄り道をしてコラム3では「歌舞伎」の起こりについて、コラム4では「十二社 熊野神社」の創建について見てきたが、今回は歩みを進め、廃宿になった「内藤新宿」のその後を辿ってみたい。

1699(元禄12)年に開設され、徳川吉宗が八代将軍であった1718(享保3)年、わずか20年足らずで廃宿の令が出た内藤新宿。この年、「江戸から10里を超える場所を除き、旅籠屋は1軒に付き2人以上の飯盛女を置いてはいけない」という法令も出され、厳しい風紀の取り締まりの中、内藤新宿にあった多くの旅籠は廃業に追い込まれた。その多くは煮売屋などに職を変え、ある者は新たな仕事や生活の場を求めて街から離れ、宿場町は衰退していった。甲州街道における江戸から最初の宿場も再び、高井戸宿へと戻ったのである。

江戸四宿の一つ、品川宿の様子を描いた錦絵「江戸名所の内 品川の駅海上」絵師:広重

宿場町の再開は54年の歳月を重ねた1772(明和9)年で、内藤新宿を開設した浅草の商人・高松喜兵衛改め高松喜六から名を継いだ、5代目の働きかけが大きかったが、そもそも最初の宿場再開願いは1723(享保8)年、廃宿から5年が経過した年に出されたという(出典:「内藤新宿と江戸」第2章 佐藤麻理著)。

もともと、日本橋から四里(約16Km)離れた高井戸宿までの間に必須と生まれた街である。廃宿で負担を強いられた高井戸宿の負担軽減と、内藤新宿内の困窮した人々の救済などを求め、申し出には破格の上納金も提示されていたが、最初の願いは叶わずに終わった。この時、そもそも最初の宿開設への投資回収がままならずおり、その際に喜兵衛らが申し出た5,600両の上納金もその20%が未納だったこともあった。

1735(享保20)年になると、遊女商売の取り締まりなどに積極的に関わってきた南町奉行・大岡忠相本人が、江戸の伝馬町に、内藤新宿再開を願い出るよう勧めている(伝馬町は江戸市中の荷物を各街道の最初の宿場に運ぶ業務を担う。高井戸宿への物資の運搬は現在の日本橋、京橋に位置する大伝馬町と南伝馬町が担った)。この頃江戸の西に広がる武蔵野新田の開発を担っていた大岡は、往来の増えていた甲州街道の状況の中にある、宿不在の影響を認識していたのである。伝馬町の町人は内藤新宿へ出向き、喜六らに相談を持ちかけたが話はまとまらず、当の内藤新宿はこの嘆願には加わらなかった。そして伝馬町による嘆願もまた届かずであった。

再開の嘆願がある一方で、1740年代から1770年代の宿場町再開直前にかけては、角筈村(現在の西新宿一帯で、村民の多くは商業活動で生計を立てていた)に宿場を設置したいという願いが度々出されていた。江戸近郊の村は農村地帯であったと言えど、地方とは異なり江戸の影響を大きく受け、さまざまな商売をする商人や職人が存在し、宿場町にも似た風景が広がっていたという。嘆願はある時は麹町や神田に加え浅草の町人から、ある時は角筈村内から申し出されたが、結局はそのいずれも宿場設置の実現には及ばなかった。しかし当初の目論見通り、江戸から遠く離れた高井戸宿の間に位置する内藤新宿一帯には、やはり宿場町としての役割と経済効果を期待していた多くの人々がいた。

江戸四宿の一つ、板橋宿付近を描いた錦絵「木曽街道 第二 木曽街道板橋之駅」絵師:渓斎英泉

さて、そうした中1764(延享3)年、幕府は「江戸四大宿」と呼ばれていた内藤新宿以外の宿場町である品川宿、板橋宿、千住宿に宿の財政状況を聞き調べている。この頃それらの宿場は、「御定賃銭」(幕府が決めた公定運賃で、通常の1/2程度。大名などの通行に適用された)での利用の増加とともに、過度な負担を強いられ、困窮していた。幕府はその軽減を目的に、宿周辺の村に人馬の提供などを命じる「助郷制度」を設けていたのだが、それを担う村の負担も大きく、うまく機能しているとはいえなかった。そこで「御定賃銭」値上げを試みるも、幕府そのものも財政難で立ち行かなくなっていたのが現状だった。

そうした中で幕府が取った新たな打開策というのは、先の法令にあった「一軒の旅籠屋に飯盛女は2名まで」の定数を増やすことで宿場町を活気づけ、財政状況を好転させようというものであった。記録によれば、旅籠屋が80件あった品川宿は飯盛女を3倍に増やし、宿場全体で500人までを認めたという。板橋宿は7軒の旅籠屋に150人、千住宿は23軒に150人までを許容した。

江戸四宿の一つ、千住宿に近い街道沿いを描いた錦絵「富嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」絵師:前北斎為一

五代目喜六の幕府への内藤新宿再開への働きかけは、この変化の流れの中にあったと考えられる。これまで幾度となく出された嘆願書だったが、他の宿場町でこれだけ寛容な策が取られた結果、かつて遊女商売が繁盛しすぎ、風紀の乱れで廃宿の令がでた「内藤新宿」の再興はもはや止めることができなかったのであろう。こうして1772年、毎年年貢を納めることと、冥加金を上納することを条件に内藤新宿の再開は許可された。以後の新宿は当時の元号から「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。復活した内藤新宿は、助郷村に近隣33箇所が指定され、飯盛女は150人、宿場町としてだけでなく、岡場所(官許の吉原以外の遊郭)としてもその繁華街の活気を取り戻していく。この時期作成された戸籍によれば、内藤新宿の人口は1771人(男1062人、女709人)で、世帯数は494世帯だったという。宿再開の際に内藤新宿にあった旅籠は20〜30軒ほどだったが、その後旅籠は57軒、茶屋も62軒にまで増えた。

廃宿になった享保時代が、八代将軍徳川吉宗による新田開発や倹約など財政再建、風紀改革の時代であったことに比べると、内藤新宿が再開した十代将軍徳川家治の時代は、田沼意次(おきつぐ)がそれまでの財政政策から、商業資本を活用した積極的な産業振興策に舵を切っており、そのことがこの再興に功をそうしたのかもしれない。以後、この宿場復活の日には、五代目喜六の尽力を讃え、明治維新の頃まで祭りが催されたという。

江戸という一大消費都市に隣接し、宿泊、飲食、娯楽といった機能を兼ね備えた内藤新宿のDNAは、現代の新宿へ受け継いでゆくべく、再び流れ始めたのである。

    参考文献
  • 「江戸の宿場町新宿」安宅峯子(同成社)
  • 「新宿・街づくり物語 誕生から新都心まで300年」勝田三良監修/河村茂著(鹿島出版会)
  • 「内藤新宿と江戸」大石学監修 東京学芸大学近世史研究会編(名著出版)

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