復興以降の内藤新宿
 狂歌の流行と大田南畝

2020.02.17

「内藤新宿」が廃宿の令から54年ぶりに再開した1772(明和9)年は、江戸の街が「明和の大火」に見舞われたこともあり、良き年に変えようと元号が年中に「安永」に変わった年でもあった。時は十代将軍、徳川家治の頃のことである。

当時、大都市江戸を取り囲む近郊は農村地帯であったが、内藤新宿一帯は水利の悪い高台の土地が多く水田は少なかったという。とりわけ、歓楽街としての活況を取り戻していった内藤新宿は旅籠屋、茶屋が軒を連ね、その西側の角筈村辺りも商業を行うものが多くいたという。

街道を通行するものには、武蔵野、多摩方面から自分の土地で作った野菜などを江戸に売りにきた農民たちがいる。たびたび見舞われた火事などの災害をきっかけに江戸は都市改造が行われたが、市街が徐々に拡大し人口100万人を超える大都市へと成長していた。市中の消費をまかなうべく農産物を江戸市内の市場に卸し、代わりに買った堆肥を積んで戻るといった近地方農民の商いが成立するようになったのであり、その行動は「江戸稼ぎ」と呼ばれた。

安宅峯子氏は「往来する人を相手に、日用品を販売する店、食料品を販売する店、あるいは馬宿などが立ち並んでいたが、青梅街道で見ても、柏木成子町・柏木淀橋町(現新宿区西新宿・北新宿)・中野村(現中野区本町)ぐらいまでは同じような町並みが続いていた。江戸稼ぎの農民はこの数キロに及ぶ商店街で、農村では入手できない品を購入して帰途に着いたことであろう」と記している(『江戸の宿場町新宿』)。

農民たちが運んでくる米や野菜、薪などの燃料は、江戸の市場や大名・旗本屋敷に直接届けられるだけでなく、周辺の商人に販売を依頼することもあったという。まさに新宿一帯には、江戸市中に農産物などを販売する「商人たちが構えるようになった店」が見られるようになっていったのである。

「新宿周辺の街道沿いの町並みは小売りの商人が店を構える『商店街』に加えて、『問屋街』としての顔も持つようになったのである。新宿周辺が、甲州・青梅街道を通って江戸に集まる物資のターミナルとして、さらなる発展を遂げていった」と安宅氏は続ける。

こうした様子は、本サイトで紹介した老舗果物専門店「新宿高野」が明治18年、開設されたばかりの新宿駅前に商店を開いた風景に重なるように感じられる。「鉄道が敷かれ、遠方から運ばれてきた商品をいち早く仕入れられる点で、新宿は有利な立地だったのでは」とは高野社長のお話だが、江戸時代から宿場町は物流のターミナルとしての役割を担っていたのである。特に武蔵野・多摩と甲州・信州を結ぶ道路が交流する地点であった内藤新宿は、次第に都市部に組み込まれ、江戸四宿(内藤新宿のほか千住、板橋、品川)の中でも、後の大都市東京となる江戸の最大の物流拠点として物と人が行き交い発展していくこととなる。

さて「安永」時代が10年で終わり、続く「天明」(1781年〜)の頃、江戸で大流行したものに「狂歌」がある。新宿歴史博物館で館長を勤める橋口敏男さんは著書『新宿の迷宮を歩く 300年の歴史探検』の中で、狂歌の流行の中心となったのは現在の新宿区であったと記している。「四谷や牛込あたりには下級武士がたくさん住んでいて、そうしたコミュニティから新しい文化がおこってきた。『周辺』にこそ新しいものが生まれるとはよく言うが、内藤新宿も当時は江戸の『周辺』であり、脈々と現代に至る文化が当時から受け継がれてきたように思う」と話す。 

狂歌は俳諧(俳句)や川柳と同様に滑稽風刺文芸で、中でもより知的な遊戯文芸と言われた。印刷技術の高まりとともに江戸時代は盛んに出版活動も行われるようになり、御伽草子などと併せ、浮世絵版画など図絵を掲載した狂歌の本も多く出版された。

狂歌流行の中心人物として最も有名なのは大田南畝(なんぽ 1749年〜1823年)、本名・大田直次郎であり、彼こそが新宿から江戸、地方へと伝播するブームを巻き起こした人物とされる。牛込(現在の新宿区中町)の下級武士の家に生まれた南畝は、幼少期より国学、漢詩、和歌などを習うとすぐにその文才を発揮し、1767年に19歳で「寝惚(ねぼけ)先生文集」を発表した。貧しい武士階級の不満や当時の流行、風俗を若者の目線で捉え、狂詩などで綴った同書は評判となり、南畝は天明文化の一大スターとなっていく。

2011年に「新宿歴史博物館」で行った特別展「『蜀山人』大田南畝と江戸のまち」チラシ

2011年に「新宿歴史博物館」で行った特別展「『蜀山人』大田南畝と江戸のまち」チラシ

1775年に風鈴山人(ふうれいさんじん)の名前で刊行した「甲駅新話」は、新宿を描いた最初の洒落本と言われている。甲駅とは甲州街道の最初の宿駅である内藤新宿のことである。たいして知りもしない新宿の遊郭で通を気取る男の、茶屋での滑稽なやりとりを描くこの物語は、当時の新宿にあった遊郭などの様子を詳しく伝えるものでもある。南畝は4年後にも新宿を舞台に、滑稽さに溢れた「粋町甲閨(すいちようこうけい)」を刊行し、ベストセラーになったという。

南畝の周辺には彼が学んでいた師・内山賀邸と同門で、共に「江戸狂歌三大家」と呼ばれた、四谷出身で徳川家の家臣、唐衣橘洲(からごろもきつしゅう、本名・小島源之助)や、牛込二十騎町に住んでいた幕府の与力、朱楽菅江(あっけらかんこう、本名・山崎景貫)のほか、南畝が処女作を出版するに至るきっかけとなった狂歌師・平秩東作(へづつとうさく)もいる。内藤新宿に生まれ、同地で父が営んでいた馬宿や煙草屋を継ぎ、稲毛屋金右衛門として知られた東作は、内藤新宿再開の際、資金を集め幕府役人などへの工作資金を立て替えるなど復興を裏で大きく支えた人物であった。

江戸切絵図「四ツ谷絵図」(「国立国会図書館デジタルコレクションより」)

江戸切絵図「四ツ谷絵図」(「国立国会図書館デジタルコレクションより」)

南畝は46歳の時(当時の政権崩壊などを背景に)、幕臣の登用試験を受け合格し、大阪や江戸で幕府の役人を務めたこともあり、その交友関係は幅広いエリアに渡るとともに、本草学・蘭学者・医者などとして知られた平賀源内を始め儒学者、歌舞伎俳優、地理学者、藩主らと職種もさまざまであった。内藤新宿界隈の寺や茶屋を借りて行われた「狂歌の会」など、職業を超えて人々が交わり合い楽しんだ賑やかな催しには、我も仲間に入りたいと熱望するものも多く、その人脈、情報網も流行発信の重要な一要素だったと考えられている。 

渥美國泰(あつみくにやす)は、昼は役人として働き、夜は遊興にふけるなど複数の、そして多様な役柄を同時に担っていた南畝をはじめとする彼らのような姿が、この時代の文人と呼ばれる人間の気質であり、時代を代表する人物であったと綴る(『大田南畝・蜀山人のすべて』)。その精神は江戸後期に最も開花したと言われる、自然を愛し、詩歌や書美術に親しみ、日々の暮らしを楽しむ江戸独特の気風や気質にも大きな影響を与えたと言っても過言ではない。

自身が生まれ育った新宿という土地を描き、幕臣でありながら町人とも分け隔てなく交流し、役人としても文人としても一目置かれ、江戸文化の推進に貢献した南畝は、現在の新宿の街を考える上でも一人のキーマンとして知っておきたい人物である。

(参考書籍)
「江戸の宿場町新宿」安宅峯子(同成社江戸時代叢書)
「新宿・街づくり物語 誕生から新都心まで300年」勝田三良監修 河村茂著(鹿島出版会)
「大田南畝・蜀山人のすべて 江戸の利巧者 昼と夜、六つの顔を持った男」
 長楽斎渥美國泰(里文出版)
「大田南畝」浜田義一郎(吉川弘文館)
「大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす」小林ふみ子(岩波書店)

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