「新宿東宝ビル」の目と鼻の先、路地を少し入ったところに「歌舞伎町公園」という名前の小さな公園がある。真ん中に敷かれた石畳を進んだ先にはお堂があり、「歌舞伎町弁財天」が祀られている。
お堂の前に立つ石碑には「弁財天の縁起と歌舞伎弁天の由来」が刻まれているが、これは戦後に「歌舞伎町」という街が誕生する以前のこの土地の歴史を伝えてくれるものである。
「弁財天」は、その碑文の冒頭に記されているように「宇賀神と称する天地創造の神のお一方」で「仏教の守護神」である。水を司る神、音楽の神でもあり、信仰すれば芸術に秀でるところから弁才天と言われ、さらに財宝が授かるご利益のあるところから弁財天と言われるようになったという。碑文は次のように続く。
「歌舞伎町は昔 大村の森と云われ 広大な沼があって 沼の辺りに弁天様が祀られてあった」
「大村の森」というのは明治時代、辺り一面森に囲まれた湿地帯であったこの場所に、肥前国(長崎県)大村藩の子孫の邸宅があったことに由来する(現在の「新宿東宝ビル」周辺)。中央には大きな池があり絶好の鴨場でもあったという。1911(明治44)年になってこの大村邸の土地を購入したのが、「尾張屋銀行」を設立し明治の女性実業家の一人とも言われた峯島喜代である。
約260年前に江戸で創業した質屋「尾張屋」(現在の「尾張屋土地株式会社」)を営む峯島家に生まれた喜代は、1876(明治9)年、夫で四代目の峯島茂兵衛の死去に伴い43歳で家業を継ぐ。不動産・金融業としての業容を築いた喜代はその後、神田小川町の土地6千坪をはじめ数十年の間に東京の土地を次々と購入、その一つが淀橋町、現在の歌舞伎町だった。喜代は森林を伐採し、池を埋め立て造成・区画割をし、住宅地として開発を進めた。
碑文には、1913(大正2)年お堂の改築・再建にあたり上野寛永寺の不忍弁財天より現在安置の本尊を勧請したとある。池を埋め立てた後も、弁財天は変わらずこの地に祀られていたのである。
(本尊勧請には「池を埋めて開拓を進めた際に出現した無数の蛇を、かつて『大村の森』にあった沼周辺に祀られていた弁財天に葬ったことから再建の際、不忍の弁財天本尊を勧請した」という話も伝えられている。蛇は弁財天の使いとも言われている)
1920(大正9)年には、この土地に東京府立第五高等女学校(現・都立富士高校)が建てられる。これは喜代が「女性の社会進出に対する教育に寄与したい」との思いから東京府に多額の学校設立資金を寄付するとともに、同土地を無償で貸与したことによる。学校ができたことで周辺には住宅も増え、街は活気を帯び始める。湿地帯が広がるだけの場所だった現在の歌舞伎町が市街地として発展するその礎を喜代は築いたといえる。公園内には「東京府立第五高等女學校発祥の地」の記念碑も建てられている。
さて弁財天であるが、1945(昭和20)年4月の大空襲で一面が焼け野原となり本堂なども羅災(先の第五高等女学校も校舎を焼失し、中野区富士見町に移転する)してしまうのだが、碑文には空襲下の出来事が次のように記されている。
「熱心な信者の一人、岡安たか子氏が弁天様の厨子(=本尊などを安置する仏具)を背に奉戴し、堂守の梅原氏が付き添い笹塚に避難しアパートの一室に安置をした。まもなく岡安氏は、弁天様が峯島家に移りたいとの御告げがあったので梅原氏夫妻に託して峯島家にお移し申した」
ほどなく終戦を迎えると、当時町会長だった鈴木喜兵衛はいち早く街の復興を計画し、大地主である峯島茂兵衛や借地権者の同意協力を得て復興協力会を立ち上げる。翌年、同協力会が区画を整理した際、弁財天の敷地は少しも変えることなく以前のまま保存し、街の建設に先駆けて仮殿を建て本尊を移した。この碑文を綴った喜兵衛は最後に「有志相寄り 弁天堂再建奉賛会を結成し 大方の浄財をもって永久不変の耐火構造により御本堂を再建し境内の改装を行い 面目を一新して この霊験あらたかなる歌舞伎弁天を当町及び近隣の守護神として永遠に崇め奉らんとする次第である」と締めくくっている。
街の守護神である「歌舞伎町弁財天」と「歌舞伎町公園」は土地の記憶を後世に残す大切な空間としてこれからもあり続けるであろう。
(参考資料)
- 「歌舞伎町の60年 歌舞伎町商店街振興組合の歩み」(編集・発行:歌舞伎町商店街振興組合)
- 尾張屋土地株式会社ホームページ(「会社沿革」)
「歌舞伎町公園」
東京都新宿区歌舞伎町1-13-3