新宿街史2

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江戸の四大宿に踊りでた「内藤新宿」が、20年足らずで廃宿になった理由とは

 1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いてから、ゆうに100年は経とうかという5代将軍綱吉の頃になって、ようやく開設された宿場「内藤新宿」。
「新宿」の名前の由来を辿れば300年前に生まれたこの宿場町にいきつき、同時に、すでに現在の一大繁華街としての賑わいの萌芽がそこに感じとれることは、前回のコラムに記した通りだ。

 浅草商人が、都市の中心に近く、人や物資が多々往来する土地の性格を見抜き早々に開発に乗り出した「内藤新宿」は、その目論み通りあっという間に、先に出来た品川宿を始めとする江戸三大宿に並ぶ宿場町へと成長した。

 しかし、そんな「内藤新宿」は開設からわずか20年足らずで廃宿へと追い込まれてしまう。急成長を遂げた宿場町を廃止にせざるを得なかったその理由とは? この興味深い史実を掘り下げてみよう。

宿場町の業務開始に向けた開発

 浅草の商人、高松喜兵衛ら5名が願い出ていた新しい宿場町開設の許可が降り、1699年(元禄12)2月、「内藤新宿」は開設された。
この江戸中期とはどんな時代の流れにあったかといえば、1680年将軍の座についた徳川綱吉が、85年から数年に渡り「生類憐れみの令」を出していたことがよく知られている。江戸の人口は開府当時15万人程度と言われているが、この元禄の頃になると推定100万人とも言われ、日本のみならず世界でも有数の消費都市へと成長していた。

 江戸に出入りする関門として、「四谷大木戸」(現在の四谷4丁目交差点付近)が建てられたのは、その辺り一体がまだ深い谷と森林に覆われた1616(元和2)年だったが、「内藤新宿」はこの関門から追分(現在の新宿3丁目交差点付近)の間に出来た、約1.2kmという割合距離の短い宿場であった。

 追分から、この「四谷大木戸」に向かって上町・仲町・下町と分かれた様子は地図などの資料にも見てとれるが、高松喜兵衛改め高松喜六は、初代名主として、現在の新宿2丁目付近にあたる仲町に本陣を築いたという。

 喜六を始めとする10人の出資者は、2万坪にも及ぶと言われる一帯の土地を宅地として造成し、新たな宿場への希望を胸に集まったであろう江戸の町民や、近隣の農民へと売却した。造成にかかる莫大な投資金は、一大行楽地として他の三宿同様の機能を果たし、繁栄すれば回収できるとめどを立てていたのかもしれない。彼ら出資者は「内藤新宿御伝馬町年寄」と呼ばれ、宿場の役人も務めた。

 地主となった者たちは、年貢と道路普請金(一部の甲州街道と青梅街道の修繕費)を納めるほか、馬と人足(金銭で納めていたとも言われる)を提供する2つの義務が科せられていた。1703(元禄16)年の地主の数は82人、1716(享保元)年には133人まで増加した。

伝馬町としての役割と財政

 宿場町が担う最も主立った役割といえば「伝馬」、すなわち幕府や公用の通行のために馬や人足を提供することであった。併せて、宿泊や休憩所の提供も義務づけられ、宿場は伝馬役として、一定の土地の税金が控除になる代わりに、常に馬や人足、旅籠を用意しなければならなかった。

 開設後、日本橋〜内藤新宿間の「御定賃銭(おさだめちんせん)」(=人や物資の運搬料、人足代)が幕府により定められた。これは主に大名などに適用された公的運賃で、相場よりはかなり低めであった。朱印状や老中発給の証文を持参している場合には無料、一般向けには、運行者と宿とで互いに取り決めたが、通常「御定賃銭」の2倍近い値段だったとされる。

 商業の発展などとともに御定賃銭や無料の公用通行が増加すると、宿場の財政は次第に圧迫されていった。通行料だけでなく旅籠も安く提供する場合があり、宿場は徐々に伝馬業務の維持や財政を保つ為、賃銭のとれる一般の客、町へ遊びにくる旅客を増やし収入を得ようとした。
実はこれこそが、宿場が「遊興の街」にならざるをえない一つの理由であり、とりわけ街道最初の宿場である江戸四宿はその傾向を強めていくのだった。

発展とともに増える旅籠屋と茶屋

 内藤新宿の土地を購入したものは、さまざまな職業を営んでいた。一番多かったのは旅籠屋で、上町から下町までそれぞれの場所に設けられた。続いて茶屋や、伝馬町ならではの糠屋(馬の飼料を扱う)、足袋屋、髪結い(旅で乱れた髪を整える)のほか、饂飩屋、豆腐屋、酒屋などがあったという。飛脚や芸人なども出入りした。
 
 宿場の旅籠屋には「飯盛女」を置くことが許されていた。「飯盛女」とは旅人に給仕する女性とは名ばかりで、実際のところ遊女と変わらなかった。宿泊のない茶屋には「飯盛女」は許されないものの、「茶屋女」が置かれ同様に遊女として商売があったとみられる。

 幕府は1617(元和3)年、認めた場所以外での遊女商売を禁じる触れ書をすでに出していて、宿場に遊女を置くことを禁じていた。公認された遊郭は全国に20数カ所あったとされるが、江戸では吉原以外にはなかった。

 道中奉行を置き、取り締まりも行っていたが、開設される前から各宿場で遊女商売は行われており、公認の遊郭に対してそれは「岡場所」と呼ばれていた。
「内藤新宿」が、開設からわずかな期間で宿場として繁盛していたのも、江戸で名だたる遊里として人が集まってきたところが大きく、また宿場の繁栄自体が、そうした旅籠からの収益に支えられていたとも言える。

吉原からの抗議と廃宿

 その繁盛ぶりは、幕府公認の遊郭である吉原の目にも余るほどの様相をすぐに見せた。そもそも吉原は、日本橋葺屋町に遊女屋を集めて作られた遊郭だったが、1657(明暦3)年江戸の明暦の大火で消失し浅草へと移ってきた。内藤新宿は目と鼻の先だったというわけだ。
 とりわけ江戸からも近い三宿にたいして吉原は取り締まりの願いを出していたが、1702(元禄15)年には岡場所として、「内藤新宿」を含む18カ所を申し立てていた。

 こんな話も残されている。旗本内藤新五左衛門の弟大八なるものが、内藤新宿で遊女遊びをしていた。ある日、旅籠屋「信濃屋」でなじみの遊女をめぐって別の客との奪い合いになり、強引に部屋に連れていこうとしたところを、旅籠屋の下男に殴打された。
 そのまま帰ってきた大八の姿を目にした兄は、「武士の恥」とばかり打ち首にし、その首を持参して大目付松平図書頭乗国のもとへ行き「自身の知行を返上するから内藤新宿をとりつぶしてほしい」と懇願したのだという。

 こうした動きの中、1718(享保3)年、突如、幕府から廃宿の令が出る。それは開設からわずか20年後のことだった。
その理由については、甲州街道を使って参勤交代する大名はわずか三藩ほどであり、街道を使う旅人も少ないからとされているが、実際に問題であったのは、旅籠屋や茶屋での遊女商売が繁盛しすぎたことによると言われている。

廃宿の令は、8代将軍吉宗が就任し幕府の転換があったことも大きな要因といえる。吉宗は江戸町奉行に大岡忠相を任命すると「享保の改革」に乗り出し、財政再建と世相一新に注力した。

「内藤新宿」廃止と時を同じくして、幕府は「江戸から10里を超える場所を除き、旅籠屋が1軒に付き2人以上の飯盛女を置いてはいけない」との法令も出しているところに、乱れた風紀を改めようとした幕府の考えがみてとれる。

旅籠屋はこの年、52軒ほどあったといわれるが以後、「内藤新宿」の町自体は残ったものの、旅籠の二階部分はすべて撤去、多くの旅籠屋は他に商売を探すか閉めざるをえなかった。
宿再開へは何度も嘆願書が出されたが、許可が降りるにはその後、54年という年月がかかるのであった。