新宿街史1

2017.07.18

江戸の歓楽地として繁栄した「内藤新宿」—「新宿」の名が生まれるまで

 近年、364万人という「世界一の1日あたり乗降客数」がギネスにも記録された巨大ターミナル新宿駅。その西側には都庁を始めとする高層ビル郡が、東側には歌舞伎町など数多の飲食店、商業施設に娯楽施設が立ち並び、新宿は東京を、いや日本を代表する一大観光都市、歓楽街として活気を見せている。

 そんな「新宿」の名前は、遡ること約300年前の江戸時代、文字通りこの地に新しい宿場ができたことに由来する。江戸幕府開幕から100年近くが経過してから開設されたこの宿場こそ、当時「内藤新宿」と呼ばれ、ほどなくして栄華を極め江戸の四大宿と言われる中に踊り出た宿場街なのだ。

 歴史を辿ると、新宿の地はその始まりから活気にあふれた「遊興地」としての性格をすでに備えていたことが見えてくる。成るべくして現在に至る成長を遂げた「新宿」誕生のきっかけとは?

内藤家の領地だった「新宿」

 時は1590年(天正18)8月、小田原城を拠点に関東を支配していた北条氏を滅ぼし天下統一を果たした豊臣秀吉は、それまで駿河一帯を治めていた大名・徳川家康を関東の新領主に命じた。家康は、太田道灌が築城しこの時すでに荒れ果てていた江戸城を本拠地として定めると、すぐに城と、江戸と各地方を結ぶ街道の整備に着手した。

 家康が江戸入りの際、鉄砲隊を率いて先陣を務めた家臣が三河時代より徳川家に仕えた武将・内藤清成である。この人は、この10年前には当時2才だった後の2代将軍・徳川秀忠の教育係も任され、以後、関東総奉行などを歴任した人物である。

 内藤清成は江戸入りの翌月、その功績から入府時に布陣していた広大な土地をそのまま拝領することとなった。(同じく、現在青山周辺の地を拝領したのが、内藤と同じ重臣の青山忠成)その広さは実に20万坪、現在の新宿御苑を中心とする新宿一帯で、江戸で最も大きい領地となった。

 江戸城より西の地はなだらかな台地が続き、防衛にむけた内堀、外堀の整備とともに、信頼できる家臣に西方の守備を命じる意味もあったのだろう。領地内には万が一敵に責め立てられた際、幕府の緊急退路として重要視していた甲州街道と、これに分岐する青梅街道もあり、両街道とも内藤家が預かることとなった。

 余談になるが、この拝領には「駿馬伝説」が言い伝えられている。
家康は、鷹狩りに同行させた清成が馬の名手と知り、「馬で一息に走り回れる土地を授ける」と言ったという。すぐさま清成の白馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷までを一息で駆け抜けて戻るとこの白馬はその場で息絶えた。現在も新宿区に名を残す「内藤町」には「多武峰(とうのみね)内藤神社」が建っており、清成の愛馬を供養した駿馬塚の碑を見ることができる。

内藤町に生まれた宿場

秀吉亡き後の1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は現在のほぼ関東全域に渡る関八州を占有すると、1603年(慶長8)幕府を開き、翌1604年には日本橋を起点とする五街道を制定し、各街道沿いに宿場の整備を進めた。

 徒歩と馬が唯一の交通手段だった江戸時代、荷物や人を運ぶための馬を用意し、休憩所、宿泊所も兼ねる宿場は必須であった。とりわけ荷物は、宿場から宿場へとリレー方式で運搬していたこともあり、家康は街道整備の際、この伝馬制度と一里塚(約4kmごと)、宿場(二里=約8kmごと)の設置を命じた。

こうして、日本橋から五街道とその最初の宿として、上方京都へのルートとなる東海道に「品川宿」、中山道に「板橋宿」、東照宮方面への日光街道および奥州街道に「千住宿」が整った。

 甲州街道沿いはどうであったかといえば、唯一、二里圏内に宿場がなく100年近くもの間、四里離れた「高井戸宿」がその役割を果たしていた。距離のある高井戸宿は、長い間人馬の提供など過重な負担を強いられていた。

 江戸城建設に必要な石灰などの資材を産地・青梅から運ぶため、1606年(慶長11)に青梅街道が開設されると、甲州街道との合流地点となる追分(現在の新宿3丁目交差点)は、次第に人馬であふれるようになった。
現在も残る「太宗寺」のある周辺には、やがて休憩する場所として自然発生的に茶屋や旅籠のたぐいが出来始め、徐々に宿場にも似た形を成していった。内藤家の下屋敷近くにできあがったその一帯は、やがて誰ともなく、その立地から「内藤宿」と呼ばれるようになったのだった。

浅草商人が目をつけた「内藤宿」の賑わいと新しい宿場の開設 

 時が経ち、江戸には華やかな町人文化が花開いていた。
交通や行政が整い、江戸の需要を目当てに農産物や食料を供給する道として各街道もにぎわいを増していた。江戸周辺の市内には芝居小屋も並び、江戸に近い品川をはじめとする宿場町には、日帰りの行楽や娯楽を求めて多くの人々が行き交った。
この賑わいにいち早く目を付けたのが浅草の商人だ。

 当時すでに浅草は浅草寺を中心に、江戸の代表的な盛り場であった。江戸湾に注ぐ隅田川沿いのエリアは全国から送られてくる米を収納する米蔵が多数並び、そこに米商人が集まり、浅草商人は富を築いていた。

また浅草には1657年(明暦3)「明暦の大火」で移転してきたばかりの吉原もあった。吉原は最盛期4〜5000人の遊女を抱え、幕府から唯一認められた遊女商売が認められていた盛り場である。

 この浅草に上総出身で、江戸に出て幕府の許可を得て浅草安倍川町を開設した名主・高松喜兵衛がいた。
喜兵衛は1697年(元禄10)、内藤町の賑わいに目を付け、市左衛門、飯田忠右衛門、五兵衛、嘉吉とともに、甲州街道沿いの新たな宿場設立を幕府に申し出た。
「高井戸宿から日本橋までは距離がありさまざまな負担が大きい。その中間に新しい宿場を開設したい」と。

 宿場は、インフラとしての重要性とともに当時一大行楽施設でもあった。内藤町は先行する他の3つの宿場町同様、その一帯の中心地でありながら江戸の中心にも隣接している。宿場町という形で設備を整え、一大行楽地を造り出せば、多大な利を得られると考えたのだった。
通常それまでの各地の宿場は、幕府が強制的に宿場を作ることも多く、幕府の負担も少なくない。幕府としては多大な上納金が入り、町人主導で宿場が開設されれば、幕府としても願ってもない話だった。

 翌1698年(元禄11)5代将軍徳川綱吉率いる幕府は、この場所に屋敷地を持つ内藤家に9,660坪を返上させ、喜兵衛らに上納金5600両(今でいう10億とも20億ともいう大金)を納めることを条件に宿場開設の許可を出した。
喜兵衛らは自分たちだけでは資金が足りず、新たに5人の商人を出資者として加え「元〆捨人衆」とも呼ばれた10名が、新しい宿場町の開発に乗り出した。

 喜兵衛は高松喜六と名を改め、内藤新宿の初代名主となり宿場の問屋役を務めた。幅五間半(約10m)の街道を開き両側に宿のような家作地を造成、出資者10名はそこへ移り住み、町政を行うこととなった。

 こうして四谷大木戸の門外(現四谷4丁目交差点付近)から追分(現新宿三丁目交差点付近)まで距離にして約1.2Km、甲州街道最初の宿場が誕生した。この宿場は、すでに出来上がっていた前述の内藤町「内藤宿」に対し、新しい宿として「内藤新宿」と呼ばれるようになったのであり、「新宿」の地名が現代にまで残るその歴史の始まりとなった。

 「内藤新宿」が江戸を代表する四大宿として活気づくのに時間はかからなかった。喜兵衛らの狙い通り大変な賑わいを見せた「内藤新宿」。しかしその後、なんとわずか20年足らずで廃止の運命となる。さて、それはなぜ・・・?(次回のコラムに続く)

参考文献

  • 「江戸の宿場町新宿」安宅峯子(同成社)
  • 「新宿・街づくり物語 誕生から新都心まで300年」勝田三良監修/河村茂著(鹿島出版会)
  • 「内藤新宿昭和史」武英雄(紀伊国屋書店)
  • 「新宿学」戸沼幸一編集(紀伊国屋書店)
  • 「新宿今昔ものがたり 文化と芸能の三百年」本庄慧一郎(東京新聞)
  • 「江戸文化の見方」竹内誠編(角川選書)
  • 「内藤新宿と江戸」大石学監修 東京学芸大学近世史研究会編(名著出版)
  • 「都史紀要29内藤新宿」
  • 「新宿駅はなぜ1日364万人をさばけるのか」田村圭介、上原大介(SB新書)

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