このWebサイトでは、「歌舞伎町公園」に立つ「弁財天の縁起と歌舞伎弁天の由来」の石碑についてご紹介した。それはこの一帯に、「歌舞伎町」の名前が付けられる前の土地の歴史を伝えるものであったが、今回注目するモニュメント「歌舞伎町建設記念碑」には、戦後新たに街が誕生した経緯を、後世に残すべく尽力した人々の苦労と未来への期待が刻まれている。
台座に球体が乗った石造りのモニュメント「歌舞伎町建設記念碑」は、「新宿東宝ビル」や「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」などが周囲に建ち並ぶ「歌舞伎町シネシティ広場」に設置されている。新宿区文化観光産業部文化観光課に伺うと、1957(昭和32)年1月、「新宿第一復興土地区画整理組合」により建立されたもので、2011(平成23年)には「新宿区地域文化財」にも指定・登録された。
記念碑に「歌舞伎町建設石碑の由来」として刻まれた内容はおおよそ、以下の通りである。(編集部にて、一部読みやすい言葉に変えています)
武蔵野に広がる野に太田道灌が江戸城を築き、徳川幕府による江戸時代を経て、明治維新の際に東京となってもなおこの周辺は、中心地から離れた郊外のいちエリアに過ぎなかった。大正12年の関東大震災を機に山の手方面の発展が促され、特に立地の良い新宿駅東口周辺は活気に満ちあふれるようになったが、隣接する角筈(つのはず)界隈(現在の歌舞伎町周辺)は、その繁栄から取り残され、依然発展しないままであった。そして第二次世界大戦の終わりも近い昭和20年4月13日夜の大空襲で、町は一瞬にして跡形もなく焼け、見渡す限り廃墟と化し、町民も散り散りになった。
しかし当時の町会長であった鈴木喜兵衛氏は終戦布告のその夜、町の復興を計画し、地主や借地権者の同意・協力を得て土地問題を解決し、復興協力会を組織した。
終戦一週間後の8月23日、文書で分散していた町会員に参加を求め、都市計画にのっとり芸能中心の繁華街建設に着手した。高低起伏のある土地をならし区画整理をし、上下水道、ガス、電気、電話などの整備を進めた。
昭和22年12月、「新宿第一復興土地区画整理組合」が結成され、復興協力会の事業を引き継いだ。それから歌舞伎町の建設には10年の年月を要したが、終戦以来2回の金融緊急措置、悪性インフレの高まり、敗戦によるさまざまな混乱に見舞われ、とりわけ数回にわたる建築制限によって芸能施設の建設もできない事態となった。そうした困難を打開するため、悪条件ながら「産業文化博覧会」を開催するなど、復興計画の推進に注力した。
町の名前も行政手続を経て「歌舞伎町」と改め、思い描いていた芸能の街の建設を成し遂げ、加えて都電の誘致、西武鉄道の乗り入れ実現など、今や歌舞伎町は首都東京の新しい中心として輝かしい発展の過程にある。
しかしながらここに至ったのは、関係当局の絶大な支援と、「道義的繁華街建設」をモットーとして、身を投げ打っていばらの道を切り開いた鈴木(喜兵衛)組合長はじめ、役員、組合員の協力、そして芸能関係者と住民それぞれの熱意に満ちた後援があったからにほかならない。歌舞伎町建設の達成にあたり、ここに記念碑を建てその大事業完遂を祝する次第である。
昭和32年1月 新宿第一復興土地区画整理組合
碑文にあった鈴木喜兵衛が計画した「芸能の町」とは、広場を中心にその周囲を劇場や映画館などで囲む一大興行街であった。当初噴水が設けられた広場は時代とともに、「レインボーガーデン」、「ヤングスポット」と名前や姿を変えながら、現在の「歌舞伎町シネシティ広場」となったが、「歌舞伎町建設記念碑」は建立から変わることなく、広場にあり続け、その街の成り立ちを伝える重要なモニュメントなのである。