果実専門店として新宿の地で
130年を超える歴史
「新宿高野」社長 四代目髙野吉太郎
インタビュー

2019.10.21

日夜観光客で溢れる新宿は、日本の、そして東京の代名詞的な大都市として、西口の高層ビル群や歌舞伎町の眩いネオンサインなど、その近代的なイメージが伝えられることが多いかもしれない。しかし駅前の大通りを少し歩いてみただけでも、優に100年を超える老舗が立ち並んでいる姿に出会うことができる。まだ雑木林が広がる、のどかな武蔵野の風景の中に生まれ、やがて新宿の街の文化の担い手となりながら、現在も新宿の街を牽引する老舗の姿に迫っていきたいと思う。

新宿の駅前で、最も古くから商いを営んでいる店は、誰もが知る果物専門店「新宿高野」であろう。その創業は新宿駅が誕生した1885(明治18)年と同じ年であり、オリンピックイヤーとなる2020(令和2)年にはちょうど創業135年を迎える。初代髙野吉太郎は、中古道具、繭の仲買を本業に、果実を副業とした商店を、開設されたばかりの新宿駅の前に開いた。

大正2年頃の店舗の様子

大正2年頃の店舗の様子

創業の頃のお話というのは、伝え聞いていらっしゃいますか?

駅舎といった大きな施設を造るためには相当の場所が必要で、必然的に街はずれに開設することになると思うんですね。新宿も四谷辺りが栄えていて、雑木林で何もなかった現在の新宿駅周辺が開発されて、そこに駅が建ちました。当時の汽車は人の輸送でなく、主に貨物を運んでいたということですし、1日の乗降客だって10人にも満たない。だからうちの先祖がなぜ駅前で商売を始めたのかについては、今でもよくはわからないのです。

高野吉太郎社長

髙野吉太郎社長

駅前に出店したのは想像するに、人ではなくて物だったのかもしれません。貨車で運ばれてきた物をいち早く仕入れられるという点では、有利な立地だったのではと思います。まさかこんなに乗降客が増えるとは、当時は予想もつかなかったと思いますけれど(笑) 関東大震災や第二次世界大戦などを経て、急速にベッドタウンが西側へ広がる流れの中で新宿駅前も大きく成長し、私どももこうして駅前で商売ができている、その歴史の歩みを常に心に止めています。

大正15年の店舗の様子

大正15年の店舗の様子

大正時代にはフルーツパーラーの前身となる縁台サービスを開始されたり、喫茶やレストランのほか、レディースファッションを手掛けられたり、その時代に合わせ常に新しい提案を続けられていらっしゃいます。

立地として情報が一番入りやすいところにありますから、お客さまのニーズや要望に答えて新しいサービスなり商品を提供してきました。デジタル社会にあってこの空間には、スマホなどで得られるネットの情報がたくさん浮遊しています。情報ってそういう目に見えないものより、やはり人が歩いている、話している中に見えたり聞こえてきたりした情報が大事だと思っています。人が一番多く集まるこの新宿には、そうしたリアルな情報がきちんとあります。店を運営しながら、日々それを感じ取っているからこそ、本業である果物を柱に、代々いろいろな提案をし続けてこられたのだと思います。

長くこの地にいらっしゃって、新宿はどのような街だと感じられますか?

昭和33年に、先代が視察のため世界を周ってきたんですが、帰国しての第一声は「世界のどこもフルーツを(専門に)やっていなかった」でした。ヨーロッパではマルシェ(朝市)があって、その中で果物を扱っている。アメリカはといえばまさにスーパーマーケットが広がりをみせた時代、その一商品としてフルーツを販売しているだけで、果物ギフト専門店というのは日本にしかなかったようです。まして果専店というのは文化的に後発なもので東京以外、例えば関西方面にもありませんでしたし、どこを探してもお手本がなかったんです。

新宿にはそうした、新宿にしか存在し得ないような商売がたくさん誕生してきたように思います。いろいろな街を見てきましたが、新宿は新宿ならではの独特の商売をされている方が多いと感じます。例えば同じ百貨店の中でも、新宿の「伊勢丹」さんは街に根ざしていて、新宿ならではな感覚をお持ちだと思います。
今でいう情報のコラボレーションといいますか、他が持っていないものや新しいもの、その組み合わせ方、つなぎ合わせ方が独特なものが新宿には溢れているような気がしますし、逆にいえば、新宿じゃないとそういった商売ができないとも言えるのではないかと感じます。

新宿には何でもあって、それがきれいに「大通り」というところに収まっている。我々のような老舗から、海外のスーパーブランド、その隣にドラッグショップなどが並ぶ新宿の大通りのようなストリートというのは、実は世界のどこにもない。パリのシャンゼリゼ通りにも、ロンドンのボンドストリートにも、世界のどの通りを見ても、ありません。類を見ない組み合わせがあるのが新宿ですよね。
外から見たらすごく不思議に思えるのでは、と思います。「なんて雑多な街なんだろう」「新宿ってどういう顔をしているかわからない」って思うかもしれませんが、老若男女いてあらゆることを網羅しているんですね。いろいろな顔を持っていて、お客さまにとってはすごく新鮮に映る、それこそが新宿の魅力だと思います。

パーラー

パーラー

多様な顔を持ったこの街で「老舗」として歴史を重ねて来られた中で、最も大切にされていらっしゃることは何でしょうか。

それは何よりも「本業」です。パーラーもレストランもファッションもすべて「果物」からスタートしています。例えばファッションにおいては、昔から果物の盛り籠などで培われるカラーコーディネートを活かしました。
ケーキやパン、ジャムやサラダも手掛けていますが、我々はいつも「果物屋のケーキ」であって「ケーキ屋さんのケーキ」は作っていないのです。「果物屋のパン」、「果物屋のサラダ」、ファッションだって「果物屋のファッション」をやってきたのです。最終的には全ての軸が果物であって、それは一貫してブレないところです。

その「果物」を支える、目利きのプロといった熟練の職人さんもいらっしゃいますね。

社員は現在約420人おりますが、さまざまな部門があり果物に直接関わっている人は実は一握りです。創業120周年の時に、いろいろと内部リサーチをしてみたのですが、高野に入社したけれどフルーツのことを全然知らないという人たちも多くいたんですね。「家族や友達が集まった時に、果物について聞かれるが、聞かれてもわからない」と。そういった話を聞いて、社内で立ち上げた一大プロジェクトが「フルーツ塾」でした。
果物に携わっていたベテラン社員を講師に、座学のほか、産地へ行ったり、新しく出回る果物や名前も決まっていないような果物を取り寄せて味見をしたり、栄養、健康情報や消費者の方が簡単に作れるおいしいフルーツレシピの講義をしたりしています。希望する社員が年に12回の授業を受け、試験も卒論もあります。

これまで「フルーツ塾」に参加した社員も全社員の半数、200人ほどになりました。我々の時代は果物に直接携わっている人ですら、品出しをする時に箱に書かれた産地などを見て、地道に覚えていったものですが、今はこの塾でその知識を得ることができます。今や社内の雰囲気も全く変わりました。

フルーツの食べ方、栄養や健康については自分の体のためにもなるような内容なので、社員も非常に興味を持って臨んでいます。社員一人一人の思いが高まり、「果物」という一つのカテゴリーが広がっていくのを感じます。研修プログラムも講師が全部自主的に制作していますが、毎年果物の品種なども変わりますから、始めた頃に作った資料から毎年どんどん作り変えなければなりません。当初切り貼りだった講義資料もパソコンで作成されるなどパワーアップしていますし(笑) 教える側も多大な熱量で取り組んでいます。

フルーツロワイヤル

フルーツロワイヤル

一企業としての業務だけでなく、商店街、警察・消防、神社や諸団体と、新宿の街の公職も数多く担われ、街に密接に関わっていらっしゃいます。

関わっているというより、むしろ「関係各社を関わらせて」いるんです。例えば(大会委員長を務める)「新宿エイサーまつり」も、特定の人や企業で費用を出し合えば開催できてしまうかもしれませんが、街の複数の商店街、商工会、団体が一緒にやることで「集まる」機会が生まれます。イベントをやること自体が目的ではなくて、イベントをきっかけに街に関わる人間が「集まる」こと自体を目的として捉えています。

普通、商店街はあまり横のつながりがあるわけではありませんが、どこの商店街とか、東とか西とか関係なくみんなが集まって街の情報を共有する、それこそが重要だと考えています。
新宿は昔から民間の人たちが集まって事を起こすというのが根付いていると思います。
遡って江戸時代を見てみても、宿場町はたくさんありましたけど、幕府などでなく民間人がきっかけに作られた宿場町は唯一、新宿(「内藤新宿」)だけでした。第二次大戦後、復興を目指した民間人によるブラックマーケットができたのも新宿が最初ですし、民間主導型というのはいまだに脈々と息づいているのではないでしょうか。新宿の街のパワーというのは民間の力なのだと思います。私は今、街の数十の団体の役職についていますが、それくらい携わっていないと今の新宿の街では、情報として役に立たないのです。これだけ役割をしてもまだまだ足りないくらいです。

新宿の未来に期待されることは何でしょうか?

あまり方向性を決めたり、計画を立てたりしないようにしようと思っています。ある程度は計画性がないといけないけれど未来は1分後だって、誰にだってわからないでしょう? 未来のことは語る必要がない、成るように成る、です(笑)

しかし、街の方向性というのは絶対必要だと思っています。安心安全、例えば災害に強い街であるとか、犯罪の少ない街など、そういう指針はベースとしてなければいけないと思います。

新宿が「歓楽街」でなくなる必要はないと思うので、時代性を持ってどのように変わって行くのかは期待を寄せるところです。同じ歓楽街でも、ニューヨークの巨大ビジョンが並ぶタイムズスクエアなどは、エンターテイメント性が強く「夢」を売っていますよね。新宿が未来に向かって、どう次の夢を売っていくのか。その流れを見据えながら、我々はこの先も「果物」という「モノ」を届け続けていきたいと思います。

100周年エンブレムと「静岡県産マスクメロンとシャインマスカットのパフェ」

マスクメロン取扱い100周年のエンブレムと「静岡県産マスクメロンとシャインマスカットのパフェ」

「新宿高野」の発展には、新宿駅という物流と情報の拠点の拡大化と合わせ、近代農業振興の拠点であった内藤新宿試験場(現在の新宿御苑)の存在も大きい。
ご存知ない方も多いかもしれないが、外来種のメロンが持ち込まれ、日本オリジナルとも言えるマスクメロンが誕生したのは、まさに新宿の地なのである。

2019年、今年はちょうど「新宿高野」がマスクメロンを高級ギフトとして取り扱って100周年の節目でもある。これまでの100年を辿りつつ、次の100年に向けての夢と歩みを我々も追いかけていきたい。

 関連リンク 
「新宿高野/タカノフルーツパーラー」
http://takano.jp/

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