第二次世界大戦の終戦を迎え一変した新宿の街。荒れ果てた風景から戦後復興の過程の中で、どのようにして現在我々が目にしている街の姿が生まれ、出来上がってきたのだろうか。現代の新宿の街の成り立ちを考えた時に重要な鍵となるのは、駅前を中心に仮設的に立ち並んだ「闇市」の存在であったと聞き、建築史・都市史を専門に都市の形成を研究されている東京理科大学工学部建築学科・石榑督和(いしぐれまさかず)助教に伺ったお話の後編。 < 前編 >はこちらから
西口エリアの成り立ちにはどのような変遷が見られますか?
戦前の東口エリアと西口エリアは決定的に違う街だったと感じます。東口エリアはもともと宿場町が広がっていましたし、その蓄積の中で戦前からある商業者とテキ屋が絡みあいながら戦後の街の姿を作ってきた様相が見て取れます。
一早くマーケットや露店が整理され、「ゴールデン街」なども生まれました。西口エリアは街としてはまだ開けていませんでしたが、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)など鉄道施設が計画され、戦前すでに駅前広場が完成していました。そのため都市の再生という観点では東口エリアのように戦災復興土地区画整理事業で駅前が整理されることなく経て、西口エリアの闇市の整理は東口エリアと比べると10年近く後になるというタイムラグがあります。
戦後まもなく西口エリアにできたのは安田組のマーケットで、現在の「思い出横丁」から小田急百貨店辺りまで300軒ほどが建ち並んでいたと言われています。これらマーケットは地下鉄の出入り口建設や駅ビル建設で整理されますが、営業者たちは交渉の末、多くは「立ち退く代わりとして株式会社をつくり土地の一部を借地して新しいビルを建設する」「優先的に地下街へ移転する」などの権利と共に新たな姿に変化していきます。ユニクロがテナントとして入る現在の「新宿パレットビル」はもともと闇市業者が設立した株式会社が土地を借地して建設したビル(新宿西口会館)であり、現「小田急エース」(地下街)も立ち退きと引き換えに優先的に営業者が入居した経緯があります。「思い出横丁」は営業者が正式な地主から土地を買い取っており、現在まで残り続けます。
石榑先生は、現在の新宿の街の姿をどのように見られていますか?
今はその存在が見えなくなってしまっていますが、復興を支えたテキ屋たちが作った空間が「移転する過程」自体が、現在の新宿を作ってきたと言って良いと思います。闇市そのものが残っているわけではないけれど、その影響を残して形を変化させ、あるいは「ゴールデン街」「思い出横丁」のようにそのままの姿でも、場所として残り続け街を構成している。終戦から75年の間に世界中から人が集まり、今や新宿駅の乗降客も世界最大規模という都市空間が成立する、そのきっかけを作ったのが闇市という存在だったということは、非常に面白いと思います。
特に、現在の新宿の都市景観の中で多くは新たに再編、または開発されたものですが、「思い出横丁」は増改築されながらも闇市だった当時の姿をほぼ完璧に今も残している、東京でもあまり類を見ない場所です。新宿駅前周辺にある建物で最も古い建物の一つとも言えます。さまざまな経緯を経て再開発できずに残り続けてきましたが、新宿という世界にも名を知られた大都市の、しかも駅前という立地にこうした零細な店が低層で残っていること自体が奇跡的であり歴史的産物です。こうした空間が今後の再開発の中で薄められていくのか、あるいはきちんと魅力ある形で残されていくのか、再生産されていくのかということを考えることは大変重要だと感じています。
こうした空間は都市の資源、移り変わる都市の地層としてということだけでなく、単純に空間として未来に残すべきだと私は思っています。繁華街の中で人が滞留する場所として、皆が魅力的に感じているものが消えることがあってはならないと思います。大切なのは「思い出横丁」のような空間が、新宿で過ごす我々にとって「重要な場所だよね」という感覚で、資産であり遺産だと思えるかどうか。東京のひとつの象徴として戦災復興で形を変えていた「東京駅」は、当初の形に復元され残されていくことになりました。
「思い出横丁」も東京の歴史を伝える重要な都市空間として残すべきではないか、そういった議論が成立するかは、現在の東京の問題として大事なところだと考えています。「東京駅」は保存するために駅舎の空中権(決められた容積率のうち、使用していない部分をほかの土地・建物へ移転することができるルール。購入側は本来の容積率以上の高層建築を可能とする)を周辺地区のなかで売ることでこれを実現しています。「思い出横丁」もその街区の地主や権利者だけの問題とせず、街づくりの中に位置付けないと、残らないと思います。新宿の街の中で「思い出横丁」をどのように位置づけるか、都市計画的なビジョンが必要だと思います。
未来に向けた都市の在り方を考える時に、「闇市」という歴史が残した空間は重要な意味を帯びてきますね。
大学進学で上京した際、一番近い都会が新宿でした。街には「歌舞伎町」もあれば「新宿御苑」「西新宿の巨大な穴が空いた広場」「思い出横丁」「駅ビル」と、さまざまな要素が密集していて、これは一体なんだろうというのが最初の素朴な疑問でした。東京の近現代史の中で都市史について見ると、近世から続く日本橋や銀座はよく描かれていますし、郊外住宅地などの新しい街についても活発な議論がされていました。しかし地理的にも、形成された時代的にもちょうど両者の中間にある新宿は、東京の巨大な街でありながらどのように出来上がってきたかについて研究がなされていませんでした。
建築的な観点からで言えば、超高層ビルの間を車が飛び交いながらその足元には屋台が広がる映画「ブレードランナー」(1982年 リドリー・スコット監督作品)は、近未来の大都市が舞台となっていますが、そうした映画さながらの都市像~「思い出横丁」があってその向こうに超高層ビルが建ちつつあるといった二面性~が新宿には同時代的にあったわけです。
そのような姿は、磯崎新さんや伊東豊雄さんといった建築家の方が1960〜80年代にかけて書かれた東京の都市論の中でも「どんどん様相が変わる新宿」「近未来都市像」として非常に魅力的に語られていて学生時代、興味深く読みましたが、やはりそこに至る具体的な街の形成像はなく、そこを知りたいと私は思いました。
一度ほとんどが燃えてしまっているので、戦前どうだったのか、戦後どのように再生していったのか、そこに重なる区画整理という都市計画的問題、仮設的に出来上がった闇市はどう移転したのか、あるいは消えていったのかといったことを読み解くことで、新宿の街の形成はようやく見えてきます。研究する中で私が思うことは、都市の形が戦争で燃えたかに見えるけれど、実際には消えなかったということです。都市空間自体は時間の中で醸成されていくものです。いろいろな時代の、さまざまな人の営為が重なりながら目の前に現れている、その積層性・多様性のようなものこそが一番魅力的な都市空間を作っているのだと思います。だからこそ新宿でいえば「思い出横丁」のような空間が、いかに消えないで残っていくかといことが非常に重要だと思います。
(モノクロ写真)資料提供先・所蔵先 新宿歴史博物館
石榑督和(いしぐれ・まさかず)/東京理科大学工学部建築学科助教
1986年岐阜市生まれ。2009年明治大学理工学部建築学科卒業。2014年同大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。明治大学助教を経て、2017年より現職。2021年より関西学院大学建築学部准教授着任予定。著書に『戦後東京と闇市』(2020年日本建築学会著作賞)、『津波のあいだ、生きられた村』、『PUBLIC PRODUCE 「公共的空間」をつくる7つの事例』ほか。