新宿街史3

2018.03.27

江戸三大娯楽の一つ「歌舞伎」の始まりとは

名所江戸百景 猿わか町よるの景 名所江戸百景 猿わか町よるの景

 「新宿」という名の由来となった幕府認可の公的宿場「内藤新宿」が開設されたのは1699年。当初から賑わいを見せていたこの宿場町が20年足らずで一度廃宿になるに至った経緯は、前回のコラムを読んでいただければと思う。

 1772年に業務再開が命じられた「内藤新宿」は以降、各街道の中で、それぞれ圧倒的な数の旅籠を有した東海道品川宿、中山道板橋宿、日光道中千住宿と並び、江戸に最も近い遊所として、現在の繁華街の原型ともいえるような姿で活気にあふれていた。

 江戸時代は、現代に続く数多くの文化が生み出された時代でもあった。そこで、再興された「内藤新宿」の歴史を辿る前に、少しここで寄り道をして、宿場町に滞在していた旅人、そして江戸庶民の娯楽について触れてみたいと思う。

江戸の娯楽

 当時の江戸の娯楽とは一体何だったのかと言えば、芝居見物に、曲芸や細工、海外から舶来する動物などの見せ物、落語などが挙げられる。その中でもとりわけ人気だったのが歌舞伎で、相撲、吉原遊郭と並んで江戸三大娯楽とも言われた。また江戸で一日に千両が動く場所といえば、当時日本橋にあった「魚河岸」に、浅草の遊郭「吉原」、そして「歌舞伎」の興行が行われる芝居町(=劇場と茶屋、料理屋、関係者の住まいなどが集まった場所)と伝えられていることからもその人気の程が伺える。人々が熱狂し、憧れをも抱いていた歌舞伎は、江戸の文化の一端を形作っただけでなく、流行の発信源ともなり、後世へと発展していく。

歌舞伎の誕生

 歌舞伎が誕生したのは徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年と時を同じくする。同年5月、出雲のお国(いずものおくに)という女性が、京都の五条河原で「カブキ踊り」を初上演したことがその始まりといわれているが、初めてその名が登場する、当時の出来事を綴った「当代記」という本には、この踊りについて次のように記されている。

 「この頃、カブキ踊りというものが行われた。これは、出雲の国の巫女と称するお国という名の、あまり美人ではない女がはじめたもので、京都に上ってきたのである。たとえば、たいそう変った風俗の男の真似をした。ことに、人目を引いたのは、世の常識を超えるような長い刀や脇差しや衣装だった。お国は、その異相の男が茶屋の女と戯れる有様を見事に演じた。身分の上下を問わず、京中の人々がそれを格別にもてはやした。家康公のおられる伏見城にもうかがって、たびたび踊った。その後、これを真似たカブキの座がたくさんできて、諸国へ下っていった」。(以上「歌舞伎の歴史」今尾哲也著より引用)

 戦国の世が終わり、失業した武士や、戦いに破れ主を失った浪人者などの中には、奇抜な格好をして町を闊歩する「異相の男」たちがいたという。平安の世となり戦いの場がなくなった後も彼らは、首に南蛮渡来の品を模したネックレスやロザリオをつけ、ひげ面で、一風変わった羽織に長い刀を刺し、常軌を逸したような行動様式を好んだという。下克上の世を懐かしみ、新しい世に抗うかのような生き様と、自己を主張した風情は人々の目を惹き付けたに違いない。彼らこそが、お国が演じた「異相の男」であり、「カブキ者」または「カブキ」と呼ばれた者たちなのだ。

「カブキ」の語源

江戸自慢三十六興 猿若街顔見せ 江戸自慢三十六興 猿若街顔見せ

 「カブキ」という言葉の語源は「傾(かぶ)く」(=傾く/かたむく)が名詞化されたものである。まっすぐである正しい道から外れた行動を取り、勝手気ままに振る舞う様から、そう呼ばれるようになったと言われている。

 もともとお国がいた一座では「ヤヤコ踊り」などを興行として行っていた。これは現代にも続く盆踊りなど、群舞のようなものから生まれた踊りの一種だったと言われている。それが新たに「カブキ踊り」を始めたのには、ヤヤコ(=幼子)踊りを踊ることができる子供から年齢が上がったなど、いくつかの理由が考えられているが、同時代に生きるリアルな「カブキ者」を主人公として舞台上に登場させ、観衆に描写してみせた「カブキ踊り」はこれまでに見ない新しいスタイルの興行として、一躍熱狂的な人気を得、江戸時代を通して代表的な芸能へと発展していった。

 舞台の同時代性とともに、男女が入れ替わって役柄を演じるという点も新たな芸能のスタイルであったという。カブキ者をお国が演じたのに対し、そのカブキ者が戯れる「茶屋の女」(これまでの「新宿街史」で触れた通り、飲食をする場でありながら茶屋女という名目で置かれた遊女に近い性格をもつ者)は、女装した狂言師「名古屋山三(なごやさんざ)」が演じ、笑いを交えたその歌と踊りに、まるで一体化するように観客は劇場へ詰めかけた。

 お国ら一座の興行が天下一と称され人気を博すやいなや、江戸でも遊女たちがこれを真似て踊り、宿場町や茶屋はさらに賑わいをみせた。カブキ踊りは、お国ら女性が中心となって演じたこともあり、初期には遊女たちによる上演が中心であった。それらの理由から江戸時代には、これら演芸を称して「歌舞妓」と表記されるように至った(「歌舞伎」の表記になったのは明治時代)。

神事と芸能

 お国が実際に出雲大社の巫女だったかどうかは定かではない。特定の神社に属さない「歩き巫女」だったとも言われているが、江戸でも「カブキ踊り」を披露したお国らは、以降「念仏踊り」なども踊っている。念仏踊りとは、鉦(かね)を打ちながら念仏を唱え悪霊を鎮めるための踊りとして、念仏聖の祖とされる平安時代の僧、空也に端を発する神事から生まれたものである。

 古代では、女性である巫女は神と人間をつなぎ、歌や踊りなどの芸能的な行為をして神と交信し、託宣や予言を行った。日本の芸能はもともとこうした「神へのささげもの」であり、神話にある「天の岩戸に隠れた天照大神を引き出すために宴を開き踊った」ことがその始まりだとも言われている。日本書紀にはこの舞踏について、中国の雑技、俗楽を意味する「俳優(わざおぎ)」という字を当てている事も興味深い(これは「わざ」で神を「おぐ(=招く)」を意味する)。また赤坂治績氏は著書「江戸の歌舞伎スキャンダル」で、江戸時代初期までそうであったように、巫女は神事、芸能、売春の3つを行っていたと言及している。

 神事の一部がやがて集客を目的とし行事化され、多くの見物人の前で行われてきた歴史の中で芸能化し、ゆえに、寺や神に仕える者から芸能を担う集団が現れるという史実も日本各地で見られた。群れて踊り狂う中からやがて、他者が踊っているのを見て楽しむという芸能もこの辺りから確立していったのだった。

 お国たちが時代の風俗、異相の身なりの「カブイた人」を敏感に捉え写した「カブキ踊り」は「歌舞伎」へと発展し、歌舞伎役者の「役者絵」や、現代のファッション雑誌ともいえるような本なども売られるようになった。多くの流行を生んだ「歌舞伎」は、まさしく江戸の文化の発信拠点であったと言えるかもしれない。

 前述の今尾氏は「カブキ踊りは、世の秩序からはみ出した人々、生きるエネルギーをもてあましながら、逆境に生きることを余儀なくされたカブキ者という人間像を踊りの主人公として発見した」といい、「カブキを他ならぬカブキとして生き続けさせた発想の土台」、そして「カブキがいつまでも『歌舞伎』と呼ばれ続けてきたことの根底」には、この「カブイタ主人公」の発見があったと綴っている。

    参考文献
  • 「歌舞伎の歴史」今尾哲也著(岩波新書)
  • 「歌舞伎とはいかなる演劇か」武井協三(八木書店)
  • 「江戸の歌舞伎スキャンダル」赤坂治績(朝日新聞社)
  • 「江戸と歌舞伎」洋泉社編集部(洋泉社)
  • 「江戸の大衆芸能」川添裕(青幻舎)
  • 「芸能・文化の世界」横田冬彦(吉川弘文館)
  • 「江戸を知る事典」加藤貴(東京堂出版)

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