演劇・映画文化を発信し続ける新宿の街のシンボル
「新宿コマ劇場」と、そのDNAを継ぐ「新宿東宝ビル」 <前編>

2020.11.05

新宿エリアにはそれぞれに個性的な映画館が建ち並んでいる。中でも歌舞伎町の中心に2015年に登場した映画館「TOHO シネマズ」が入るビルは、8階のテラスから怪獣ゴジラがその迫力ある顔を露わにし、今や新宿のシンボルとも言える名所の一つになっている。

「新宿東宝ビル」外観

「新宿東宝ビル」外観
資料提供:東宝株式会社 ©TOHO CO., LTD.

歌舞伎町の「シネシティ広場」に面した場所で、「ゴジラビル」とも呼ばれ親しまれている「新宿東宝ビル」には、都内最大級規模の映画館(3〜6階)のほかに、「ホテルグレイスリー新宿(藤田観光株式会社運営)」(8〜30階)、飲食ほか店舗(1〜2階)などが入る。この複合施設を手掛ける東宝株式会社は、直営する「帝国劇場」と「シアタークリエ」の二つの劇場での演劇公演をはじめ、映画・映像作品、アニメなどのエンタテインメントを創業以来、長きに渡り人々へと届けてきた。

東宝の創業は1932(昭和7)年8月、阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の小林一三(いちぞう)が、演劇・映画の興行を主たる目的として株式会社東京宝塚劇場を設立したのがその始まりだった。2年後、有楽町に宝塚歌劇など演劇公演を行う「旧・東京宝塚劇場」と「旧・日比谷映画劇場」を開場する。1936(昭和11)年に東宝映画配給株式会社を、翌年に東宝映画株式会社を設立、1943(昭和18)年にはこれを合併して映画の製作から配給、興行まで一貫して行うこととなり、社名を東宝と改めた。ちなみに東宝とは「東京の宝塚」の略である。

有楽町・日比谷エリアを本拠地として演劇・映画文化を牽引してきた東宝と新宿・歌舞伎町の出会いにはどのようなきっかけがあったのか。「新宿東宝ビル」が、新宿の街のシンボルとなるまでにはどのようなストーリーがあったのだろうか。東宝株式会社 不動産経営部次長の太田圭昭さんにお話を伺った。太田さんは「現在『新宿東宝ビル』が立っている場所に、かつて小林が『新宿コマ劇場』(以下コマ劇場)を作ろうと決断したところから、歌舞伎町との関わりがスタートしました」と話す。

1956年当時の様子を捉えた航空写真。中央右手の建物に「コマ・スタジアム」(コマ劇場運営元)の文字が見える。

1956年当時の様子を捉えた航空写真。中央右手の建物に「コマ・スタジアム」(コマ劇場運営元)の文字が見える。
資料提供先・所蔵先 東急レクリエーション

当サイトでもたびたび紹介しているが、歌舞伎町という街は1945(昭和20)年の敗戦後、当時の町会長であった鈴木喜兵衛による都市計画から始まった街である。鈴木が考えたのは、噴水を設けた広場を中心に、劇場や歌舞伎座を誘致してこれを取り囲み、家族連れが楽しめるような「道義的繁華街」を作ることであった。当初の復興計画図を見てみると、現「新宿東宝ビル」の場所には「菊座」(歌舞伎劇場)の名前が書かれている。歌舞伎座誘致は実現しなかったものの、1948(昭和23)年には町名をそれまでの「角筈(つのはず)」から「歌舞伎町」に変更した。

復興計画が完成し、土地の利用も鈴木の働きでまとまったものの、広場を取り囲む興行街の建設は、労働者確保の問題、建築の制限規則などに阻まれなかなか進まずにいた。街づくりを推し進めるべく考えられたのが、1950(昭和25)年「東京文化産業博覧会」の開催だった。同エリア一帯をメイン会場として、広場の周りには産業館や婦人館、生活館のほかに、児童館や野外劇場、大きな恐竜の模型なども建ち並んだという。これら大型の建物の多くが後に映画館などの施設として転用された。東宝のもとに劇場建設の相談があったのはこの頃のことだったという。

当時のお話というのは何か伝え聞いていらっしゃいますか?

歌舞伎座を作りたいという計画が頓挫したこともあって、地元の人や新宿区の人から小林に、「劇場を作って欲しい」と声が掛かったそうです。東宝は創業以来、あまり高尚過ぎず、低俗過ぎない「一般大衆に向けた娯楽」を提供してきました。それは一貫として東宝の血のように現在まで流れているのですが、当時はそうしたエンタテインメントがあまりなく、小林は日比谷や大阪の地で劇場を手掛けてきていましたが、歌舞伎町でもぜひやってみたいと考えたようです。1932(昭和7)年に東京宝塚劇場を日比谷に作って以来、積み重ねて来た歴史もありますから、何か実験的なことを歌舞伎町でやろうとしていたのだと思います。

かつての「コマ劇場」の様子

かつての「コマ劇場」の様子
資料提供先・所蔵先 東急レクリエーション

1956(昭和31)年12月に完成した「コマ劇場」は座席数が2700を超え、都内でもトップ規模の劇場となりました。舞台も非常に独特な形状だったそうですね。

「コマ劇場」の名前の由来にもなっているのですが、そもそも舞台が円形になっていて、それが回りながら上下するようになっていました。客席はすり鉢状になっていて、舞台の後ろ側も見えるような造りだったのです。小林の頭の中にそういう劇場を作ってみたいという思いがあったようで、海外にもよく行っていたと聞いていますので、海外にヒントを得たものかもしれませんし、新しいアイデアだったのかもしれません。私も実際に見たことがありますが、本当に立派な舞台でした。地下には2つの映画館「コマ東宝」「コマシネマ」を有していました。

残念ながら小林は完成後すぐに亡くなりました。思いが結実した舞台が出来上がったものの、後継として独特な劇場を理解し活かしていけるものがおらず、実際は円形の半分を閉じた半円を使い、ほぼ一般的な舞台のようにして公演を行っていったようです。

アメリカのミュージカル映画「オクラホマ」(フレッド・ジンネマン)の上映で幕を開けた「コマ劇場」は、ミュージカル公演や歌謡・芝居劇場として、また紅白歌合戦なども行われ、昭和時代の新宿を象徴するような街のシンボルになりました。

「演歌の殿堂」とも言われ、美空ひばりさんをはじめ、北島三郎さん、氷川きよしさんといった歌手の方が公演を行い、地方からも大型バスで多くのお客様がいらっしゃいました。「コマ劇場」の最盛期は、かつての歌舞伎町の隆盛のピーク(近年になって再び盛り上がりを見せていますが)とも重なり合っていたように思います。

 かつての「コマ劇場」の様子

かつての「コマ劇場」の様子
資料提供:東宝株式会社

2008(平成20)年、「コマ劇場」52年の歴史に幕が閉じられました。現在の「新宿東宝ビル」建設計画はどのように進められたのでしょうか。

閉館の理由は老朽化でした。併せて、最盛期に比べ演歌も世間的に下火となり、クイーンのミュージカルを上演するなどいろいろと思考錯誤しましたが、事業的にも厳しいものがありました。
建て替えの計画については本当にたくさんの議論がありました。広場を囲む四社(四葉会=東宝、ヒューマックス、東亜興行、東急レクリエーション)で共同再開発を検討していた時期もありましたが、それぞれに社の文化や体力も違いますので共同では難しいということになり、最終的には当社があのエリアでトップバッターとしてビルの建て替えをしようとの決断に至りました。

地元の方々からは「コマ劇場」同様、人を集めるような施設の要望が強くありました。東宝・東急レクリエーションともに映画館を閉館しゼロになってしまっていたこともあり、もう一度エンタメ施設をビルに入れたいという思いは我々にもありましたが、一方で事業の厳しさも痛感していましたので、社内でもいろいろな意見が交錯し、どう解決すべきかさまざまにシミュレーションを行いました。

立地からオフィスは難しい。アパレルや百貨店など物販の店舗も考えましたが、当時は人もまばらで治安も悪く、うまくいくかどうかわからない状況でした。唯一可能性があったのがホテルだったのです。そんな中で手を挙げてくれたのが藤田観光さんでした。

藤田観光株式会社はホテル椿山荘東京(文京区)などのほか、新宿エリアでは西口にある「ワシントンホテル」を運営されていらっしゃいますね。

当時はまだ東京でのオリンピック開催も決まっていないし、インバウンドという言葉もなかったような時期にあって、「ワシントンホテル」には外国の方の需要が非常に多くありました。1000室規模のホテル運営ノウハウや実績に加え、歌舞伎町エリアに高い可能性を感じてくださったのです。藤田観光さんの「自信がある」という言葉とともに示された大規模ホテル出店の意思が、ビルの建設計画を大きく前に進めてくれました。

その後、エンタメ的な観点から社内で議論をして浮かんできたアイデアがシネコン(シネマコンプレックス:同一施設の中に複数のスクリーン・ルームがある映画館のこと)でした。当時のシネコンは車で行くようなロードサイド立地が時代の潮流で、都市部のシネコンはまだ黎明期にありましたので計画には賛否両論ありました。新宿には松竹(マルチプレックス・シアターズ)が手掛ける「新宿ピカデリー」、東映とTOHOシネマズ(株式会社ティ・ジョイ)が共同で運営している「新宿バルト9」という2つのシネコンがあって、これが都市型の映画館としては注目を集め始めていたのですが、業績も日本のトップ3に入るような館でしたので、「シネコンにチャレンジしよう」「2つも映画館があるのだから無理だろう、まして歌舞伎町で」という意見に二分されました。

東宝にとって「映画」は本業であり強みでもありましたから、勝負しようという決断のもと、エンタメとホテルという複合ビルができ上がったんですね。しかし、東宝としてはまさにチャレンジでした。

「TOHO シネマズ」内観

「TOHO シネマズ」内観
資料提供:東宝株式会社

実際に歌舞伎町に新たなシネコンとホテルが誕生して、反響はいかがでしたか?

もうオープン直後からいきなりすごかったです。建設中から徐々にインバウンドの数が増加し、ホテルは高稼働。シネコンでは映画自体への注目の高まりもあって日本映画・海外映画ともにどんどん良作が生まれました。西武新宿線の駅に近く、沿線にはシネコンが少なかったので、沿線に住む方々も来てくださるのではという希望もありましたが、人々の働き方や生活スタイルが郊外から都心へと移り、映画館もロードサイドから都心のシネコンへという流れがこれに加わりました。約2400席と座席数もエリアで一番大きいという強みもあり、いくつかの追い風にも恵まれ、1年目からずっと国内で一番の集客・売り上げを記録し続けるものとなりました。

(後編に続く)

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