「観る」「遊ぶ」「食べる」の多様なレジャーを提供
「嬉しい時間を創る」ヒューマックスグループ <前編>
「ムーランルージュ新宿座」再興からの創業

2021.02.26

「歌舞伎町シネシティ広場」に立って周囲を見渡すと、映画館あり、ホテルあり、クラブありと、それぞれに個性ある商業ビルが四方を取り囲んでいるのが見える。これは、鈴木喜兵衛という人物が戦後、エンターテインメントを中核に据えた復興まちづくりとして「中央に広場をおき、その周りを歌舞伎劇場『菊座』をはじめとする大小の劇場、映画館などで囲んだ一大興行街」を計画した歴史の流れを汲むものである。

かつて東側に立っていた「新宿コマ劇場」は2015(平成27)年に「新宿東宝ビル」となり、西側でさまざまな娯楽を提供してきた「新宿東急文化会館」(後の「新宿TOKYU MILANO」)は、劇場、映画館、ライブホール、ホテルなどが入る高層複合施設へと進化を目指し、建築が進行中だ。今回は、北側に立つ「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」と、対角線上の南側に立つ「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」をご紹介したい。

両施設(新宿エリアではほかに「ヒューマックスパビリオン新宿東口」がある)を運営する株式会社ヒューマックスの創業者は、台湾出身の林以文(りん いぶん)氏で、その歴史は終戦直後の1948(昭和23)年に設立した「恵通企業株式会社」から始まる。設立のきっかけは、以文氏が前年に着手した劇場「ムーランルージュ新宿座」の再建で、これこそがその後「観る」「遊ぶ」「食べる」の3つの分野の事業を展開するヒューマックスグループの、「観る」の礎となった。

創業者の林以文氏

創業者の林以文氏

前編では、文化発信拠点としての新宿の歴史を語る上でも欠かせない「ムーランルージュ新宿座」について辿ってみたいと思う。

「ムーランルージュ新宿座」は1931(昭和6)年、映画館「新宿武蔵野館」のある通りの奥、現在の新宿駅東南口近くにオープンした。ちょうど新宿にさまざまな映画館が続々と誕生していた頃のことである。「ムーランルージュ(フランス語で赤い風車の意味)」といえばフランス・パリにある有名な老舗キャバレーの名前で、その名にあやかり、また本家同様、新宿の建物にも赤い風車があしらわれていた。劇場を開場したのは浅草で劇場支配人を勤めていた佐々木千里である。

当時、映画館や見世物小屋が並び大衆芸能の中心地として栄えていた歓楽街は、浅草だった。とりわけ人々が熱中していたのは、1929(昭和4)年に誕生した軽演劇団「カジノ・フォーリー」で、それまでオペラやオペレッタ、ミュージカルなどを大衆向けに日本語で上演していた「浅草オペラ」の流れを注いで生まれた同劇団は、その流行と入れ替わる形で一躍人気を博した。座長は喜劇俳優のエノケンこと榎本健一(正式には第二次カジノ・フォーリーの座長)で、パリで見られるような踊り子たちによるダンスショー、歌や喜劇などを上演し、浅草には同様の劇団が次々に誕生した。

「浅草オペラ」出身でもあった佐々木は浅草での『レヴュー(演芸)流行の風潮に目をつけ、山の手のインテリ層を対象に、当時目覚ましい発展ぶりを見せていた新興の街、新宿に旗揚げ』したという。(カッコ内は新宿歴史博物館資料より引用)

約400席を有した「ムーランルージュ新宿座」は、浅草とは一味違った軽妙な風刺劇や抒情劇、踊り子たちのダンスなどを上演し、アイドルの元祖とも言われる明日待子さんなどスターも輩出した。満州事変が勃発し、第二次世界大戦開戦の足音も近づきつつある中、学生やサラリーマンなど娯楽を求める客が押し寄せ連日大賑わいだったが、劇場は1945(昭和20)年の東京大空襲で焼失してしまう。

「ムーランルージュ新宿座」

「ムーランルージュ新宿座」

この跡地と劇場を買い取ったのが以文氏だった。大学留学を機に来日した以文氏は、卒業後に勤めた義兄の製薬会社の工場長などを経て、戦後は薬品製造業を起こす。「ムーランルージュ新宿座」は、事業で成功した資金をもとに不動産事業を手掛けるようになる中で繋がった縁であり、1947(昭和22)年に再開するや、すぐに活況を見せた。そこには以文氏の「戦争で何もかもなくした人々に喜んでもらいたい」という強い思いがあったという。

戦後の「ムーランルージュ新宿座」

戦後の「ムーランルージュ新宿座」

歌舞伎町の最初の映画館として開館した「新宿地球座」

歌舞伎町の最初の映画館として開館した「新宿地球座」

同年、復興が進む角筈地区(現在の歌舞伎町)に計画された「新宿地球座」の建築許可権購入の話が舞い込み、劇場経営を始めたばかりの以文氏はこれを買う。紆余曲折を経ながらも12月、歌舞伎町で最初の映画館となる「新宿地球座」(定員560人)が開業し、欧州、ソ連(当時)作品などを上映する独立系映画館としてスタートを切った。同館は戦後都内で建てられた本格的なビルの第1号でもあり、こけら落としのソ連映画「石の花」は国内初のカラー映画上映だった。

続いて1953(昭和28)年には客席数1,500人という、独立興行主による劇場としては当時最大規模を誇る「新宿劇場」を開業する。これが、後の「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」である。

復興から約10年、歌舞伎町周辺にさまざまな劇場が建ち、繁華街として盛り上がりを見せるようになると以文氏は、「人々がさまざまなレジャーを楽しめることができるビルを」と考え、映画館第1号だった「新宿地球座」を解体し、1958(昭和33)年、同地に「新宿地球会館」を建築する。館内には映画館、コンサートホール(その後レストランに)、サウナのほか、豪華なショーを披露する「クラブ・ムーランルージュ」が、再興後4年で閉館となった「ムーランルージュ新宿座」の名を引き継ぎ開業した。

「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」の前身となった「新宿劇場」(1960年頃)

「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」の前身となった
「新宿劇場」(1960年頃)

「新宿地球会館」にあった「クラブ・ムーランルージュ」

「新宿地球会館」にあった
「クラブ・ムーランルージュ」

以文氏が「一大総合娯楽デパート」と称した、「観る」「遊ぶ」「食べる」を備えた「新宿地球会館」のありよう、創業者の思いはその後脈々とヒューマックスグループの精神として受け継がれていく。同ビルは2010年に名称変更し、現在の「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」に至る。

創業時、「互いに恵みを与え合い、共に栄える商い」を目指し名付けたという恵通企業株式会社は、「楽しいことや喜びを詰め込む」の意を込めた「恵通ジョイパックグループ」、そして「Maximizing Human Potential(人間としての可能性を最大限にする)」からの造語「HUMAX」へと名称を変えながら、進化を遂げていったのである。

※トップ画像 資料提供先・所蔵先:「新宿歴史博物館」
※上記以外の画像資料提供先・所蔵先:株式会社ヒューマックス

(後編に続く)

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