シネマとスポーツの一大殿堂
「新宿東急文化会館」の歴史と
そのDNAを受け継ぎ誕生する新たなビルへの思い

2021.09.24

1956(昭和31)年、歌舞伎町にオープンした新宿東急文化会館は、映画にスケート、ボウリングなど、その時々に流行した娯楽を提供しながら街の知名度を高め、多くの来街者を惹きつけてきた。1996(平成8)11月、創立40周年に伴い新宿TOKYU MILANOと名称を変更、2014(平成26)年に惜しまれつつその歴史に幕を閉じた。

前編では同会館を運営する東急レクリエーションが、映画の興行会社 新日本興業として創業するところから新宿東急文化会館開館までの歴史を辿ってきた。後編では柱となってきた映画事業を中心に、歌舞伎町での軌跡と未来への展望について、元・新宿ミラノ座の支配人で、現・東急レクリエーション 事業創造本部 新宿再開発準備室シニアアドバイザーの横田浩司さんと、同準備室の中西里紅さんにお話を伺った。

1960年代の新宿東急文化会館。映画館のチケット売り場左には「日本で一番素敵な!アイススケート場」の看板が見える1960年代の新宿東急文化会館。映画館のチケット売り場左には「日本で一番素敵な!アイススケート場」の看板が見える

編集部:
東急文化会館は新宿と渋谷、両方の街に同時に誕生しましたが、新宿にはどのような印象を持たれていましたか?

横田さん:
入社した80年代は渋谷の施設にいましたが、その当時の新宿はとにかく夜の興行が強かったことを覚えています。ミラノ座は毎週土曜、近隣にある東亜興行さん(新宿グランドオデヲン座や新宿オデヲン座など)は毎日オールナイト上映を行っていて、ミラノ座の応援にもいきましたが、エリア全体が盛り上がっていました。やはり街にパワーがあったと思います。ベトナム戦争を描いた『プラトーン』(1986)が公開になった時は、上映の休憩時間に関係なくずっとチケットを求める列が続いて、オールナイト上映の入場券までひたすら売り続けていた記憶があります。全部自由席で、今のような予約システムもありませんでしたが、多い時にはロビーを解放し、電気を消してそこから映画を見る人たちもいたと聞いたことがあります(笑)。

写真は1960年代の新宿東急文化会館。映画館に並ぶ人の長い列写真は1960年代の新宿東急文化会館。映画館に並ぶ人の長い列

編集部:
歌舞伎町は<映画の街>といったようなイメージもあったのでしょうか?

横田さん:
歌舞伎町に行けば、その時に公開されている映画はどこかのスクリーンで必ず上映しているという感じだったと思います。当時はエリア全体で16スクリーンあって街全体がシネコンの様相を呈していました。実際、2000年代には広場を囲む事業者からなる「四葉会」(東急レクリエーションのほか、ヒューマックス、東宝、東亜興行)の支配人たちが広場を「シネシティ広場」と命名し、「キャパ7000席の青空シネコン」と題してそれぞれ運営する映画館を統一の名前でアピールしようと連動したこともありました。

ミラノ座の外観に掛けられた大看板(仕掛け看板)も他の映画館にはあまりないもので、広場からよく目につき話題になりました。入り口付近で「何時から上映が始まります」「ただいま休憩時間いただいています」とのベルを鳴らしながらの呼び込みなども日常の風景としてありました。

ミラノ座の外観に掛けられた大看板ミラノ座の外観に掛けられた大看板
ミラノ座の外観に掛けられた大看板ミラノ座の外観に掛けられた大看板

編集部:
当時最大規模だったミラノ座は、数々の記録も残っていますね。

横田さん:
1983(昭和58)年には年間動員86万人、興行収入119000万円と全国の劇場別ランキングで1位を獲得しました。歴代動員数1位はこの年の前年から上映が始まった『E.T.』で動員数526588人です。(2位は1975年『タワーリング・インフェルノ』、3位は197576年『ジョーズ』)。
個人的に思い出深いのはやはり最後のクロージングイベントです。何回も見られるようなフリーのチケットを作りましたが座席は満席、通路にも入場客が座るほどで定員1500人のところ、2000人くらい入ったかもしれません。映画だけでなくミラノ座という劇場のファンの方にも支えられてきました。

編集部:
ミラノ座以外にも複数の映画館を展開されていらっしゃいましたが、他にはどんな映画館があったのでしょうか。

横田さん:
開館当時はミラノ座と同じ建物の地下に定員1000人の「新宿東急」があり、1972(昭和47)年になって隣に立つ新宿ミラノ新館に「名画座ミラノ」がオープンしました。その後1981(昭和56)年、新宿東急文化会館の3階に224席のミニシアター「シネマスクエアとうきゅう」がオープンしますが、これはエポックメイキングな映画館だったと思います。
コンセプトとして掲げたのは「全国でただ一館のみのロードショー館」でした。当時、ヨーロッパを中心に単館向けの芸術性の高い作品がけっこうあったのですが、日本では基本的にチェーンで全国展開する作品の上映が中心です。今でこそミニシアターブームなどとも言われていますが、単館と言われたのは岩波ホール1館だけで、小さいキャパで作品を上映する場所がありませんでした。そうした映画に可能性があるのではないかと考えた、ヨーロッパの映画事情をよく知るヘラルド・エース(配給会社)と当社の人間が、東京ならばそれなりに集客があるのではと企画し、実現させたのがシネマスクエアとうきゅうだったのです。渋谷ではなく新宿に開館したのも、当時は新宿が、若者がより多く集う街であり、彼らをターゲットと捉えていたからだと思います。

シネマスクエアとうきゅうの内観シネマスクエアとうきゅうの内観

中西さん:
シネマスクエアとうきゅうは「ミニシアター文化発祥の地」とも言われ、「開業当初のこだわりがすごかった」と伝え聞いています。例えば女性のスカートにシワがつかないような上質の椅子(フランスのキネット社製)を取り入れ、座席の間隔を広くゆったりした空間作りをしたり、飲食も禁止で、まだ珍しかった完全定員入れ替え制や、金曜・土曜のレイトショーも導入したりするなど、映画を集中して見ることに特化した映画館だったそうです。他にも映画のパンフレットを女性のバッグに入る小型サイズにするなど画期的な取り組みがいくつもありました。

横田さん:
海外へ視察にも行ったんですよね。椅子は当時1脚7万円で、40年前にそれを入れたのですから、こだわりにあふれていたと思います。

編集部:
どのような作品が上映されていたのですか?

横田さん:
最初に上映された作品はイギリス映画『ジェラシー』です。あまり日本では知られていない監督を発掘して紹介したり、ブーム以前から韓国映画に注目して上映したりしてきました。ミラノ座のような大きなロードショー館とはまた一味違った文化を、映画を通して発信する場であったと思います。ミニシアターが他の街に増えていくとともに、最後の方は一般のロードショー作品も上映しました。
こだわりのある映画館作りという点では、(前述した)名画座ミラノも90年代に「アメリカン・コメディアン・シアター」と銘打って、アメリカのコメディ作品だけを単館上映する時期がありました。これもやはりシネマスクエアとうきゅうを担当した人が、同館に発想を得て、いろいろとチャレンジする中で映画館の個性を打ち出していこうと考えてのことでした。

中西さん:
名画座ミラノが入っていた新館は特に、映画館に限らず自社直営の新規事業の実施が多かったようです。両館とも、その時代にはやっているものに果敢にチャレンジし取り入れていったり、時代の移り変わりに合わせて業態を変えたりしながら運営してきました。その柔軟さは現在の社風にも感じられる部分だと思います。手掛けた店舗には日本初となる海外外食チェーン「ウインピーミラノ」など飲食店だけでなく、珍しい鳥獣の輸入販売業などもありました。

1970年、新館に開業した音楽や会話を楽しむミュージックシティ ポニー・ミラノ。カーステレオ据え置きの透明カプセルで50室設置した1970年、新館に開業した音楽や会話を楽しむミュージックシティ ポニー・ミラノ。カーステレオ据え置きの透明カプセルで50室設置した
味の街に1976年に開業したバグ・パイプ新宿。英国調の店内には、羊の皮で作った吹奏楽楽器バグパイプやスコッチウイスキーを置き、洗練されたサービスを提供した味の街に1976年に開業したバグ・パイプ新宿。英国調の店内には、羊の皮で作った吹奏楽楽器バグパイプやスコッチウイスキーを置き、洗練されたサービスを提供した

編集部:
歌舞伎町に建つ文化発信拠点として、常に新しい風を起こしていたのですね。

中西さん:
映画館とスケートという形ができあがったのも、新日本興業が東京製氷との合併を経て現在の東急レクリエーションになったのも歌舞伎町がきっかけです。昔から地域の方々との付き合いを大事にし、今日に至っていると感じるところもあります。50年以上ずっと事業を続けてきた街として、歌舞伎町は当社にとっても歴史ある場所ですし、ミラノ座はじめ新宿東急文化会館の存在というのは大きいです。

シネシティ広場と連動しさまざまなイベントも行われた。写真は2003年5月「トロイ」公開時に撮影で使用した木馬を海外から運んできて展示した時の様子シネシティ広場と連動しさまざまなイベントも行われた。写真は2003年5月「トロイ」公開時に撮影で使用した木馬を海外から運んできて展示した時の様子

編集部:
その新宿東急文化会館の跡地には新たな高層複合ビルの建設が進んでいます。これまでの歴史を汲み、未来へ繋いでいきたい思いはどんなことでしょうか。

横田さん:
映画興行に関して言えば、現在では1000席を超えるような座席を有する映画館はもうありません。スクリーンを分けて違う作品を上映した方が効率は良いですが、その代わりに「どこの映画館で見た」という館そのものの印象は薄くなってきているように感じます。
かつては「映画を見るならミラノ座で見たい」というファンの方もいらっしゃいました。「ミラノ座に行けば何かに出会える。とりあえず行ってみよう」と思ってくださった人もいると思いますし、一回行けばまた行きたくなるような魅力があったと思うんですね。これから新しくできる複合施設、そしてそこに入る映画館や劇場もそのようなリアルな体感、配信では味わえない体験ができる場になれればと願っています。「映画を見るならここだ」、そんなふうにお客様に思っていただけたら、うれしいです。

中西さん:
映像配信も増えて家で作品を見ることも多いですが、2時間近く映画以外の世界をシャットダウンして作品に向き合うことができる映画館での体験というのは、家でながら見するのとは全く違うものだと思います。デートなど何か特別な日に行くような場でもあると思うので、そうした空間の楽しさを味わって欲しいという思いがあります。
シネマコンプレックス誕生以降、IMAXデジタルシアターや4DX(映像に合わせて椅子が動いたり、特殊効果によって映画の臨場感を高めたりする)など映画館における技術も進化してきました。作品を流す「場」を作る興行会社でもあるので、当映画館だからこそできる体験を提供し、映画が好きな人たちに集まってもらえるような、愛される場所を作っていけたらと思います。
かつて歌舞伎町にスケートリンクができたことで街全体が変わったように、街に来る目的が一つできると新たな流れが生まれるのではないかと期待しています。新しい建物に出来る劇場や映画館に来てもらった後に、近くの店で食事をしたり買い物をしたり、街と一緒に盛り上がれるような開発を大事にしていきたいです。

資料提供先・所蔵先 東急レクリエーション

Editorial department / 本文中の本アイコンは、
歌舞伎町文化新聞編集部の略称アイコンです。

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