戦後「歌舞伎町」と名付けられ新たに形づくられた街は、劇場や映画館が広場を囲んだ興行街がその中心にあった。その骨格は70年以上経った現代にも引き継がれていて、本サイトでもヒューマックスパビリオン新宿アネックス、ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町(前身はそれぞれ1947年開業の映画館 新宿地球座、1953年開業の新宿劇場)、新宿東宝ビル(前身は1956年開業の新宿コマ劇場)などの商業施設について、その歴史を辿ってきた。
今回は新宿東急文化会館(後の新宿TOKYU MILANO)に注目したい。施設の中心となったのは1956(昭和31)年の開業当時、国内最大規模だった1500席の映画館 ミラノ座と東京スケートリンクで、昭和から平成にかけて58年間に渡り、“シネマとスポーツの一大殿堂”として歌舞伎町の顔であり続けた。
スケートリンクは後にボウリング場になったが、それら娯楽を家族や友人たちと楽しんだ人、60〜70年代の『カサブランカ』や『ジョーズ』、80〜90年代の『E.T.』や『グーニーズ』、2000年代の『エヴァンゲリオン』や『アナと雪の女王』などの映画を、ミラノ座のスクリーンで楽しんだ思い出を持つ人は、幅広い年代にいるのではないだろうか。
現在その跡地は東急株式会社と、新宿東急文化会館を運営してきた株式会社東急レクリエーションが共同で開発を手掛けている。劇場、映画館、ライブホール、ホテルなどが入る高層複合施設の建設が進行中で、噴水をイメージするなど意匠を凝らしたその外観が日に日に姿を現しつつある。
新宿東急文化会館オープンの経緯を振り返る前に、まず東急レクリエーションの創業について見てみたい。同社の歴史は1946(昭和21)年6月、千代田区で設立された新日本興業株式会社から始まる。前年に太平洋戦争終戦を迎え、少しずつ日常を取り戻していった人々は娯楽を渇望していた。中でもとりわけ身近な娯楽だった映画は、邦画の製作が復活したりアメリカ映画が輸入され始めたりと、その行く先に期待が寄せられていた。そうした流れにあって同社は、元フォックス、元マキノトーキーといった映画人や財界人らが発起人に名を連ね、「人々の夢と希望を担う」との志を掲げて創業したのである。初代会長に池邊龍一氏(元東洋拓殖総裁)、社長には小野丑藏氏(元欧米映画社長)が就任し、監査役には、株主でもあった東京急行電鉄株式会社の五島昇氏(五島慶太氏の長男)がついた。
新日本興業はまず地方都市にある洋画専門館の再建に着手する。創業の2ヶ月後、三重県にある木造平屋建ての劇場を譲り受け、これを四日市キャピトル劇場として開館したのを皮切りに、その後1年余りの間に名古屋、姫路、金沢、浜松など地方に7つの劇場をオープンする。1947(昭和22)年8月には「新宿ヒカリ座」を開業し、これが東京で最初の映画館開業となった。
さて、そんな新日本興業と歌舞伎町はどのようにして出会ったのだろうか。鍵となるのは1950(昭和25)年に開催された「東京産業文化博覧会」だ。この博覧会は建築制限令によって歌舞伎町における興行街建築が難航している中、映画館や劇場に転用可能な施設を、産業博覧会の名目で建設しようと計画し開催されたものだった。アイディアを授けたのは、歌舞伎町の街づくりでもたびたび相談役を務めていた五島慶太氏である。この時、広場(現在のシネシティ広場)の東側(現 新宿東宝ビル)には児童館と野外劇場が建てられ、西側(後の新宿東急文化会館の場所)には、飛行機の格納庫を移築した600坪の広さを持つ鉄骨組の産業館が建てられた。
博覧会終了後、五島の下には撮影所や劇場を傘下に持つ東映(東京急行電鉄出資の映画製作会社 東横映画株式会社 などを吸収合併している)の進出を打診する話もあったというが、広大さ故に転用が難しかったこの建物に関して五島は、「その堅牢さを活かしてスケート場にしたら」とアイディアを出したと言われている。実際、東京急行電鉄は産業館跡地・建物の譲渡を受け、スケート事業を実現するために東京スケート株式会社を設立し、1951(昭和26)年11月、屋内スケート場 東京スケートリンクをオープンする。界隈では第一号の映画館として開業した新宿地球座ただ一つがあるだけの歌舞伎町で、東京スケートリンクはオープンするやたちまち新しいランドマークとして人気のスポットとなった。
翌年、東京スケートは「スケートリンクの稼働率が落ちる夏場に氷の販売をできるように」と製氷工場を増設し、社名を東京製氷株式会社と変更する。新日本興業は1953(昭和28)年にこの東京製氷と合併し、東急グループの一員となるとともに本社を歌舞伎町に移転する。この合併は映画興行に加えスケート、製氷の3つを柱にレジャー企業として展開していく新日本興業に更なる転機を呼び寄せる。
時は昭和30年台に移り、高度経済成長の流れを受けてレジャー産業は次第に広がりを見せていた。五島は、洋画上映館では他社が圧倒的なシェアを占めているのに対して、新日本興業は新宿ヒカリ座と池袋東洋映画劇場の2館を手掛けるにとどまっていたことに着目し「ロードショー劇場のチェーン化」の必要性を唱える。これがまさしく新宿・渋谷2拠点における「東急文化会館設立構想」だった。歌舞伎町の地は新日本興業が、渋谷は東京急行電鉄の子会社として新設した株式会社東急文化会館がそれぞれ建設に当たり、1500人規模の映画館をメインにした建物の同時開業を目指した。
新宿東急文化会館は、東京スケートリンクを取り壊した跡地に1956(昭和31)年12月1日、開業する。地下1階には定員1000人の外国映画一般封切館「新宿東急」、1〜2階には定員1500人のロードショー館「ミラノ座」、3〜4階には(12月20日に)「東京スケートリンク」を展開した。映画館はもちろんのこと、600人を収容できる観覧席を備えたスケートリンクは、オープン当初から連日5000人もの入場者があり大盛況だったという。
翌年12月には同会館南側に商業ビルが建設され、地上1・2階には中華料理やとんかつ店、洋酒バー、純喫茶、洋食店、お好み焼き店、寿司といったテナントが連なる「新宿味の街」が、地下には直営のキャバレー「クラブ・ミラノ」も誕生した。この建設は東村山〜高田馬場間を走っていた(旧)西武鉄道(現在の新宿線の始まり)が1952(昭和27)年に新宿まで延伸され、会館のすぐ近くに西武新宿駅ができたことにも因る。すなわち飲食店などを揃えたバラエティー豊かな複合ビルによって、駅から会館までの閑散としていた通りの賑わいを目指したエリア開発だったのである。
1965(昭和40)年には、会館に隣接した土地に新たに「新宿ミラノ新館」(地下2階、地上5階)を開業。麻雀、パチンコ、ビリヤード、ダンスホールといった映画以外の娯楽を一堂に備えた複合施設としてこちらも独特な存在感を放った。こうして新宿東急文化会館は、歌舞伎町における文化発信拠点としていち早く躍進を遂げる。
新日本興業はこの翌年、渋谷東急文化会館の建設を担った株式会社東急文化会館と合併し、映画館12館、スケートリンクをはじめさまざまな施設・店舗を保有する国内でも有数のレジャー会社へと成長、1969(昭和44)年3月、社名を株式会社東急レクリエーションに変更し現在に至る。社名の「レクリエーション」には旧来の「レジャー」に変わり、新しい時代の要請に応える企業であらんとの思いが込められている。
資料提供先・所蔵先 東急レクリエーション