新宿をはじめ東京の街は、第二次世界大戦で一面焼失し、戦後復興の過程の中で新たにつくり上げられてきたところも多い。そうした街の中でとりわけ歌舞伎町は他とは違い、町民がいち早く復興協力会を立ち上げ、民間主導で復興都市計画を進めた稀有なエリアだった。
計画の中心にいた、というよりも壮大な計画そのものを描き、それまでにない新しい街の実現に向けて人生を掛けて奔走したその人が、鈴木喜兵衛である。
淀橋区角筈一丁目北町(現在の歌舞伎町)の町会長であった喜兵衛が描いたまちづくりは、「国鉄山の手線を背にしてワの字形に芸能施設をつくり、その周辺に計画的に店舗住宅を配する」ものだった。興行街には劇場や映画館、子ども劇場、演芸場、総合娯楽館、ダンスホールといった施設のほか、大宴会場、ホテル、公衆浴場を配し、靖国通りから現在の東宝ビルに至る南北の通りには物販店街を、交差する東西の通りには飲食店街を展開する計画を思い描いていた。そうしたアイディアの源泉は一体どこにあったのだろうか。
1892(明治24)年、三重県に生まれた喜兵衛は尋常小学校卒業後、近県で丁稚奉公を続ける中、新聞や雑誌に並ぶ海外のニュースを目にし、渡米への夢を募らせる。上京後その夢は叶わなかったものの、アメリカ、そしてイギリス両大使館で料理人として十数年間勤める。角筈に移ってきたのは大正後期の頃で、独立してレストラン、続いて現在の歌舞伎町シネシティ広場近くに食品製造販売会社を設立した。周囲はまだ小さな店舗や住宅が並ぶ静かな町だった。町会長に就いたのは1943(昭和18)年のことだ。
喜兵衛は著書「歌舞伎町」の中で、終戦のその日に復興まちづくり計画を立てたと綴っている。新宿は1945(昭和20)年4月の空襲で壊滅していた。日光に疎開していた喜兵衛は同年8月15日、終戦を告げる玉音放送を耳にした際、国内経済の発展に不安を抱きつつも、日本の生きる道は「観光国策」と目を付ける。「風光明媚は日本の宝、戦争に勝利したアメリカからも日本を見に人が来るだろう」と考え、「彼らが東京の焼け野原に立った時、新宿に整然とした復興の街のあることを見せる。しかも1ヶ月くらいで成否の見通しをつけよう」と強く理念を掲げた。これが現在の歌舞伎町に至る、「道義的繁華街の建設」の第一歩となった。
まるでヨーロッパの街のように、噴水を設けた広場を中心にその周りを劇場で囲んだり、T字路で町内を構成したりと、そのまちづくりプランは斬新でユニークだった。ノンフィクション作家の木村勝美氏は「大使館時代に目にしたであろう数多くの外国雑誌などから素材を得、長い時間の経過の中で肉付けされ、やがて構想にまで膨らんだのではないだろうか」(『新宿歌舞伎町物語』)と推測する。
終戦から数日も経たないうちに東京に戻った喜兵衛は、早速全国各地へ疎開していた旧住民に連絡を取り復興協力会の設立を熱心に呼びかけた。大地主であった峯島茂兵衛はじめ、借地権者の同意・協力を得て土地問題を解決すると、東京都建設局都市計画課の石川栄耀を訪ね、復興計画を説明し賛同を得る。
石川は「新たな街にふさわしい、何か文化的な香りのするモダンな町名」を、まちづくりと合わせて模索していた喜兵衛に「復興計画の目玉は歌舞伎劇場の建設だから、ずばり歌舞伎町はどうだろう」と提案した人物でもある。
1948(昭和23)年4月、「歌舞伎町」という新しい名が認可された町は、上下水道に電気・ガス、電話などが整備され、街路樹も移転・新設するなど、劇場・映画館などを除いて、一通り当初の計画通り建設を終え、繁華街としての姿を現していた。
加えて喜兵衛ら復興協力会は、興行街が完成すれば来街者数も圧倒的に増えると見込み、街の治安と衛生を守るための巡査駐在所や公衆便所の建設も不可欠と尽力した。それら建物が周囲と調和したデザインか、その美観や電線の地下埋没といった町の景観にも喜兵衛は心を配っていたという。
興行街の施設は、度重なる金融政策と建築制限令などにはばまれ、建設計画が頓挫するなど困難が続いた。実現には至らなかった国際百貨店設立の計画や、「東京産業文化博覧会」の開催など、まちづくりを推し進めるべく喜兵衛はその都度、策を打ち出し続けた。
計画から約10年、昭和30年代に入ると「新宿コマ劇場」や「新宿東急文化会館」なども完成し、喜兵衛が思い描いた芸能の街はようやくその当初の計画を成し遂げる。時代は高度経済成長期に入り、歌舞伎町は娯楽を求める多くの来街者で飛躍的な賑わいを見せるようになった。
それでも喜兵衛はさらに先へと目を向けていた。乗降客が多い新宿駅から歌舞伎町へ多くの人が来街するよう「どんな天候の日も躊躇なく客足が流れ込む経路の確保が街の発展に不可欠。国鉄新宿駅東口と歌舞伎町との間に地下広場を建設し、この広場を通して駅と町を結びつけよう」と考えたという(『新宿歌舞伎町物語』より)。喜兵衛の目指した構想はその時点では実現しなかったものの、後に当時の歌舞伎町商店街振興組合長推進の下、新宿サブナード地下商店街として着工が決定し、1973(昭和48年)に完成している。
喜兵衛は1967年(昭和42)年、75歳でその生涯を終えた。
不思議な縁か、新宿のまちづくりには実はもう一人の喜兵衛が存在する。それは遥か昔、江戸時代中期に新宿の立地に目をつけ宿場町「内藤新宿」の開設に奔走した浅草の商人、高松喜兵衛だ。新宿が現代のような都市となるその歴史はここから始まったといっても過言ではない。二人の“喜兵衛”のまちづくりへの情熱があってこそ、現在の新宿、そして世界に名だたる魅力的な街、歌舞伎町は存在するのである。
参考文献
『歌舞伎町』 鈴木喜兵衛著 昭和30年 大我堂(印刷所)
『新宿歌舞伎町物語』 木村勝美著 昭和61年 潮出版社刊
*鈴木喜兵衛氏の写真は関係者の許可の下、『歌舞伎町』より転載