歌舞伎町にかつて計画された幻の「国際百貨店設立計画」

2021.07.20

歌舞伎町はどのようにして生まれた街なのか、戦後まったく新しい町名を冠して誕生した経緯は、コラム「歌舞伎町の誕生を伝える『歌舞伎町建設記念碑』」でも紹介した。数々の困難を乗り越えて実現したこれまでにない形の街であったが、実はその歴史の始まりに、幻の計画があったことはあまり知られていない。それが「国際百貨店設立計画」である。

歌舞伎町のまちづくりを計画し推し進めた鈴木喜兵衛が、歌舞伎町建設報告としてまとめた一冊『歌舞伎町』に、「国際百貨店模型」として掲載されている完成予想図には「International Department Store“KABUKI”」と記されている。計画は一体どのようなものだったのだろうか。

終戦後−歌舞伎町がまだ淀橋区角筈(つのはず)と呼ばれていた時代、町会長だった喜兵衛は、すぐに復興計画を関係者に提示し協力を求めた。1946(昭和21)年5月に公表された初期の街のプランは興行街を中心に、周囲に住宅を併用した店舗が並ぶ商店街を配したもので、興行街部分はおおよそ以下のような姿であった。(図:編集部作)

中央に設けた広場を取り囲むように、大劇場(菊座、自由劇場)2つ、映画館(新宿地球座、全線座、鶴鳴館、ビジョン座)4館、お子様劇場、演芸場、大総合娯楽館、ほかにも大ソシアルダンスホール、大宴会場、ホテル、公衆浴場が一同に会した一大興行街である。

喜兵衛は、この計画とともに新興の文化地域にふさわしい新しい町名への変更も考えていた。1948(昭和23)年41日に決定した「歌舞伎町」の名は、復興計画全域の中心部にあたり、興行街建設の大きな柱となっていた歌舞伎劇場を由来としたものだった。
しかしその歌舞伎劇場は金融政策と建築制限令にはばまれ、これを手掛ける予定だった企業は撤退を余儀なくされる。ほかの施設も同様で、加えて労働者確保の問題などが立ちはだかり工事どころか整地作業も進まず撤退、新たな事業者へ交代してゆくこととなる。
早くに基礎工事が完了していた「新宿地球座」(現在のヒューマックスパビリオン新宿アネックス)が唯一、1947(昭和22)年12月に歌舞伎町最初の映画館として、また戦後に都内で建てられた本格的なビルの第一号として無事開業した。こけら落としとなる「石の花」(ソ連)は国内初のカラー映画で、その鮮やかな総天然色の映画に人々は夢中になったという。興行街の一角、定員560人の映画館に15千人以上が詰めかける様子は、喜兵衛はじめ、まちの復興に関わる人々を勇気づけたに違いない。

当時、新宿駅前一帯はバラックのような建物からなる闇市が相当な勢いで広がりを見せていた。土地の権利問題なども発生し、時に復興計画の遂行の妨げともなっていたそれらマーケットが、空き地に近いままであったその他の土地に侵食することを危惧した喜兵衛は、「歌舞伎町の心臓に相当する敷地」での建設をどうにか前に進めたいと一層注力した。「国際百貨店設立計画」はその頃、歌舞伎劇場建設予定地に代案として打ち出されたものだった。

国際百貨店模型 1948(昭和23)年10月国際百貨店模型 1948(昭和23)年10月

喜兵衛に同計画の知恵を授けたのは、「東急コンツェルンの総帥・五島慶太であり、五島を紹介したのはかねてよりつながりのあった小林一三だろう」と推測されている(木村勝美著『新宿歌舞伎町物語』)。
小林一三は現在の阪急電鉄の創業者で、東宝のルーツとなる「旧・東京宝塚劇場」「旧・日比谷映画劇場」を戦前、有楽町に建てた人物である。戦後は初代戦災復興院総裁も担い、喜兵衛はこの復興院へ足繁く通っていた。また小林は官庁に務める五島を、武蔵電気鉄道、荏原電気鉄道(ともに東急電鉄の前身)の役員に推すなどその転身に多大な影響を与えたと言われている。

「国際百貨店設立計画」は1948(昭和23)年3月に発足した芦田均内閣が、外資導入による経済再建を政策の核としていたことを背景に、アメリカと合弁の国際百貨店を設立し、経済提携することで建築制限の特免を得て、産業の振興と貿易の促進などを目指す計画であった。地上6階、地下2階建て、売り場面積約8,500坪を予定し、欧米の機械器具類の特約販売、米国雑貨・食品専門売り場や常設の輸出雑貨展覧会場の展開、大衆の日常生活における必須商品の販売を事業計画として掲げていた。

『歌舞伎町』に掲載されたフロア設計図。自動車、部分品陳列場などが書かれた地階『歌舞伎町』に掲載されたフロア設計図。自動車、部分品陳列場などが書かれた地階
2面がショーウィンドーになったメインフロア2面がショーウィンドーになったメインフロア
中央が吹き抜けになった2階。3〜6階部分の設計図は省略されている中央が吹き抜けになった2階。3〜6階部分の設計図は省略されている
屋上には「STAGE」の文字が見える屋上には「STAGE」の文字が見える

同計画は、誕生からわずか8ヶ月という短さで芦田内閣が総辞職に追い込まれたことに伴い、合弁会社の株式募集にも至らず中止となる。計画の内容・設計図などは、喜兵衛が「歌舞伎計画復興の歴史の中の一片」として、また「対米国民感情の推移と時代の変遷が事業感覚にどう反映するか、後世の語り種にでもなれば」として『歌舞伎町』に書き残したものだ。同書以外、「国際百貨店設立計画」についてはあまり資料が残されていないので、大変貴重である。

なんとしても興行街の建設を進めようと邁進する喜兵衛は、再び五島の元を訪れる。五島は、産業復興や貿易振興、観光などを目的に国内各地で行われブームの兆しをみせていた産業博覧会に目をつけていた。「産業博をダシにして、将来、映画館、劇場に転用可能な施設の建設してしまおうとしたのである。これなら建築制限令をすり抜けることが可能だったのである」(『新宿歌舞伎町物語』)

五島の新たなるアイディアを受け、1950(昭和25)年4月から3ヶ月間、歌舞伎町、新宿御苑、新宿駅西口広場の3会場で「東京産業文化博覧会」が開催された。各地の主要物産の展示販売と合わせ、女性や子どもに向けた情報発信に重きを置き、歌舞伎町会場には、産業館、児童館、野外劇場、社会教育館、婦人館、合理生活館が建ち並んだ。

後年、建築制限令が解除となったことも後押しし、これらパビリオンを取り壊して映画館や、複合レジャー施設などが相次いで建てられた。現在の歌舞伎町の原型が出来上がってくるのである。前述の小林一三は、一度は「国際百貨店設立計画」が立ち上がったものの消え、博覧会開催時には児童館と野外劇場が建てられたその土地を後に購入し、「新宿コマ劇場」を建てる。一方、これに対面する位置に建てられた産業館はスケート場へと生まれ変わる。飛行機の格納庫を移築した鉄骨組で、広大な規模ゆえ転用が難航していた建物について、「その堅牢さを活かしてスケート場にしたら」とアイディアを口にしたのは五島だった。195612月にオープンした「ミラノ座」「新宿東急」「東京スケートリンク」を擁した「新宿東急文化会館」は、その後長らく「コマ劇場」とともに、歌舞伎町の文化発信拠点として歴史に名を刻むのである。

「国際百貨店設立計画」は幻に終わったが、戦後の焼け野原から復興し、日本を代表する繁華街となった歌舞伎町の誕生には、喜兵衛の復興にかける不屈不撓の精神と、世の中の動きを俯瞰し、さまざまな助言、協力を惜しまなかった人々がいたことを心に留めておきたい。

参考文献
『歌舞伎町』 鈴木喜兵衛著 昭和30年 大我堂(印刷所)
『新宿歌舞伎町物語』 木村勝美著 昭和61年 潮出版社刊
『新宿学』 戸沼幸市編著 青柳幸人、高橋和雄、松本泰生著 2013年 紀伊国屋書店刊 

*国際百貨店模型、ならびに設計図は関係者の許可の下、『歌舞伎町』より転載

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