新宿街史6
江戸から明治期の内藤新宿の変遷

2022.02.17

新宿の街の歴史を辿る「新宿街史」。その始まりは徳川家康が江戸入りした際、先陣を務めた武将・内藤清成が現在の新宿一帯の土地を拝領、やがて江戸城への物流ルートとして人や物の行き来が増えた追分(現在の新宿三丁目界隈)に自然発生的に生まれた「内藤宿」にルーツがある。
浅草商人である高松喜兵衛らがその立地と賑わいに目をつけ、幕府から宿場開設の許可を得たのは江戸幕府成立から約100年経った1699(元禄12)年のことで、これが「内藤宿」に新しく生まれた宿から「内藤新宿」と名付けられた。1718(享保3)年に一度廃宿となるが、1772(明和9)年に宿場は再開された。

さてその江戸から近代化が始まったといわれる明治期へ大きく時代が移り変わる中で、内藤新宿はどのように変遷したのだろうか。
江戸時代後期は後に化政文化(18041830年)と呼ばれる町人文化が華やいだ。江戸の名所案内のような類は1600年代からあったが、江戸の地誌「江戸名所図会」や、「江戸名所百景」が制作・刊行されたのもこの頃のこと。「東都高名会席尽(とうとこうめいかいせきづくし)」という江戸で名高い会席料理屋50軒について、その門構えや庭の風景、名物料理などを歌川国貞・歌川広重が描いた錦絵には、内藤新宿からも「中勝」「梅の木」の2軒が描かれている。

幕末期となる1853(嘉永6)年、浦賀に来航したペリーが鎖国政策を取っていた江戸幕府へ開国を求めたことなども引き金の一つとなり、国内で倒幕の動きが高まる。長らく続いた江戸時代は、1867(慶応3)年、徳川慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」によって幕を閉じた。翌年成立した明治政府は江戸を東京と改名したほか、1871(明治4)年には江戸時代の藩を廃止し、新たに県を置く廃藩置県を行い、併せて宿駅制度も廃止するなどさまざまな改革を進めた。これに伴い江戸にいた多くの武士、続いて商人らが国元へ戻ったため、100万都市と言われていたかつての江戸の人口は半分近くまでに減っていくのである。
内藤新宿も同様に、街道沿いの一部は賑やかな江戸の宿場町風情をとどめていたが、それ以外は荒涼とした土地と化していった。残っていた旅籠の多くは飯盛女(遊女)を抱え、町は遊里の性格を帯びていた。これら旅籠は1873(明治6)年に「貸座敷渡世規則」が施行されると「貸座敷」と名前を変え、一帯は吉原や品川と並んで東京府公認の遊郭となって賑わうようになる。ちなみに数十軒あったと言われる貸座敷は1918(大正7)年、警視庁より「牛屋の原」(現在の新宿二丁目)へ移るように命じられ、3年の間に移転している。牛屋の原とはその名の通り、明治の頃は「耕牧舎」という6,000坪ほどの牧場があった場所で、これを開業したのは芥川龍之介の父である。龍之介本人もここで過ごした体験を作品に綴っている。

明治時代、なんといっても町の在り方を大きく変えたのは1885(明治18)年に、赤羽と品川間に日本鉄道品川線が敷かれたことと、「内藤新宿駅」(2年後に「新宿駅」に改称)の完成であろう。場所は宿場町時代の中心であった追分から数百メートル西へいった畑の中、現在のルミネエスト周辺である。列車は二両編成で13往復のみ、人よりも貨物の輸送が多く、1日の乗降客は50人ほどで、あたりはまだ閑散としていたようだ。1889(明治22)年になると、甲武鉄道(後の中央線)が新宿から八王子まで開通し、明治30年代になると賑わい始めた駅前にも店が増えていくが、町の中心が四谷・追分周辺から名実ともに現在の新宿駅の方へ移るのは、明治も末期から大正にかけてのこととなる。

現在の追分周辺の様子

明治時代にこの他に起きた、現在の新宿区内の出来事に目を向けてみると、1871(明治4)年に牛込揚場町に開設された石鹸工場「戮盟社(りくめいしゃ)」が国内で初めて石鹸の生産を始める。翌1872(明治5)年には内藤家の屋敷の大部分が国へ上地され、大蔵省がその一部を近代農業の振興を目的とする「内藤新宿試験場」として開設する。日本で初の缶詰の試作が行われたのはこの試験場である。1879(明治12)年に管轄が宮内省へ移り「新宿植物御苑」へ、そして後に「新宿御苑」となるまで国内の近代農業や園芸の発展に寄与してきた。
陸軍士官学校や後の早稲田大学など学校の創立、秀英舎(現・大日本印刷)の印刷工場(市谷加賀町)、眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆、場所は内藤新宿)、小西本店の工場(現・コニカミノルタ、場所は新宿西口側)の開設などを見ても、明治期の新宿が交通の要所として、また近代化する都市の中で重要な立地であったことがうかがえる。

江戸という街の一番西の端にありながら繁華街として名を馳せた内藤新宿は、交通網の発達と共に一層西側に拡大する郊外住宅地と東京の中心を結び、大正から昭和にかけてさらに東京の一大ターミナル地として発展していく。江戸時代の宿場の姿も消え、いよいよ新しい時代の都市の姿の原型がここに誕生していくのである。

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