民芸を愛する夫婦が始めた店がルーツ
歌舞伎町で長く愛されるとんかつ店を手掛ける「株式会社すずや」社長
歌舞伎町タウン・マネージメント代表 杉山元茂さんインタビュー <前編>

2021.01.27

歌舞伎町のシンボルとも言える真っ赤な「歌舞伎町一番街アーチ」の真横に立つ「SUZUYAビル」。その5階にある「すずや新宿本店」は、民芸品を愛したある夫婦が訪れた各地の旅先で集めたコレクションをインテリアなどに使って始めた温かな店から、その歴史が始まる。民芸運動の中心となった柳宗悦、浜田庄司をはじめ、池田三四郎(木工家)、芹沢銈介(染色家)など日本を代表する人々が通い、看板やメニューの表紙は版画家・棟方志功が手掛けたことでも知られる。

近年も変わらず多くの人が、都会の雑踏の中ほっと落ち着ける店内へ、名物の「とんかつ茶漬け」やロースかつ定食などを堪能しに足を運ぶ。今回はそんなとんかつ店を展開しながら、歌舞伎町の街のためにさまざまな要職を担い活動されてきた株式会社すずや代表取締役社長の杉山元茂さんにお話を伺いました。

「すずや」の創業は今から70年近く前になるのですね。

「すずや」は私の叔父叔母にあたる夫婦が始めた店で、創業の場所は一つ隣のゴジラロードにある現ドン・キホーテの向かいの角でした。叔母の華子さんのご主人だった鈴木喜一郎さんという人は、いわゆる「歌舞伎町という街を作った」と言われる鈴木喜兵衛さんの長男です。

「すずや」の前身は1947(昭和22)年に設立された「鈴木食品工業」で、お惣菜の製造販売をしていました。設立の年代を考えると、戦争が終わって焼け野原だった一帯で喜兵衛さんを中心にした街づくりが始まって、中央に設けた広場(現歌舞伎町シネシティ広場)を取り囲むよう計画された繁華街建設のために大博覧会を開催するなど、なかなか思う通りにはいかないことがありながらも街ができてきた頃です。復興に協力した人々が最後に、この表通りの地所を地主から分けてもらって、みんなそれぞれに店や商売を構え始めたのだと思います。

私の祖父の杉山健三郎は、そもそも喜兵衛さんの片腕的な存在として戦後の街の復興を手伝うなどしていた人でした。祖父の地所はここ(現在のSUZUYAビル)にあって、そこから叔母が鈴木食品工業に嫁ぎました。

鈴木喜一郎さん、華子さん夫妻

鈴木喜一郎さん、華子さん夫妻

1954(昭和29)年になって製造販売だけでなく、惣菜をその場で食べられるような飲食店をやろうと思って、華子さん、喜一郎さん夫婦が始めたのが「民芸茶房すずや」でした。「鈴木食品工業」からこの飲食店が発展したというか、生まれたという歴史があります。

当時の写真を見ると、「民芸茶房すずや」は雰囲気のあるとても立派な外観です。

3階建てで今よりも間口の広いお店でした。モダンなコーヒー&レストランというか、今でいうテーマレストランのようでした。夫婦にとっては民芸品の収集という「趣味を活かした」喫茶レストランでした。内装から食器、ユニフォーム、料理も素朴感があったというか、「民芸の精神」という筋が通っていて、すべてがコーディネートされていたという点は振り返ってみてもすごいなと思います。

「民芸茶房すずや」の外観

「民芸茶房すずや」の外観

1960年代前半まで2人で切り盛りしてとても繁盛していたのですが、喜一郎さんが若くして亡くなってしまって。その後叔母は、夫婦2人が始めた「すずや」の屋号をいただいて杉山の実家に戻ってきました。当時、祖父や父は「すずや」とは別に蕎麦屋などを手掛けていたのですが、ビルを建てて「すずや」を移設することになりました。

幼少の頃の記憶で、覚えていらっしゃることはありますか?

蕎麦ととんかつの店を父が1階でしていて、私はここで生まれて2階に住んでいました。小学生4、5年生くらいまでは、まだ隣の通りにあった「すずや」によく遊びに行って店の中をうろうろしていたのを覚えています。一言で言うと落ち着いた感じの大人の店というか、来ていたお客さんは若い人が多かったようですけど、文化の香りがするなんとなくいいムードだったのは、今でも思い出します。

民芸品が並び温かな雰囲気の「民芸茶房すずや」の様子

民芸品が並び温かな雰囲気の「民芸茶房すずや」の様子

子どもの頃はこの歌舞伎町界隈もまだ肉屋や八百屋、文房具屋などが並ぶ、本当に普通の商店街でした。「すずや」がここに移ってビルになったのが、中高生くらいの頃だったかな。「伊勢丹」はもうすでに開業していましたが、この靖国通り沿いにもようやく7〜8階建てのビルが建ち始めたような時期でした。都電もまだ靖国通りを走っていて、ちょうどこのビルのはす向かいあたりに「新宿駅前」という始発の停留場があって賑わっていました。

自分も行きたいと思った「新宿東急文化会館」のスケートリンクも強く印象に残っています。近隣に少しずつスケート靴を貸す所や売る店などが増えていって、徐々にスポーツ店になり、そんな中で商売替えや移転をする友達の家が多かったという記憶がありますが、歌舞伎町は商店街からやがて、更に人の集まる繁華街へと変わっていきました。高度成長と言われている時代、その変化のスピードは早かったのだと思います。

少年時代でいうとアメリカの戦争映画などを見て憧れて、ミリタリーグッズなどを売っている店によく行きました。現在の新宿大通り、「紀伊国屋書店」から「伊勢丹」の間辺りだったと思いますが、通りの両側に個性あふれるいろいろな業種の小さな個人店がたくさん並んでいて、プラモデルや軍の放出品のようなものを売っていたり、ジッポライターの専門店があったりしました。ちょうど上野の「アメ横」のような雰囲気です。
当時の新宿の繁華街としてのボリューム感は、もしかすると今よりも秀でていたようにも思います。歌舞伎町だけでなく、今の三丁目一帯、駅前とすでに大きな商業地として形成されていました。

料理人のまかないから始まり、やがて名物となった「とんかつ茶漬け」

料理人のまかないから始まり、やがて名物となった「とんかつ茶漬け」

家業に関わるようになられたのは、いつ頃からですか?

別のレストランなどで修業もしていましたが料理人になるわけでもないし、人から頼まれていろいろな仕事をしていましたけれど、それも一生の仕事になるわけではない。いずれ家業は継ごうと思っていましたが、大学を出て2、3年した頃、当時店にいらした番頭さんというか総支配人に「戻ってきなさいよ、いい年なんだから。なんで戻ってこないの?」と言われて、「その通りだな。そのように言ってくれる人がいるならば」と心を決めました。

店を継いだ時は高度経済成長のまっただ中で、自分としても経済効率を追い求めていきたいと考えていましたが、それに対して「民芸」というのはそもそも効率というのとは真逆なので、そういう意味では家業を継ぐ覚悟で入ったけれど、100%このカルチャーの中ではできないなという気持ちもどこかありました。
叔母夫婦は本当に自分たちの好きな民芸品を使って好きなお店をやりたいと、その思いからスタートして揺らぐことなくそのコンセプトを貫きましたが、当時の自分は民芸品が好きだったわけでもなく、ただビジネスとして大きくしたい、自分の思い入れは創業者とは全く違うところにあったのです。

新しいことに次々にチャレンジされる中で、受け継がれてきたもの、大事にされてきたものは何でしたか?

やはり「とんかつ茶漬け」には救われたというか、それがあって今があるのだと思います。当時はまだありませんでしたが今のファミレスのような、白いお皿でステーキやハンバーグなどを効率良く提供するような形を自分はレストランビジネスと考えていたので、最初は「メニューから隠したら」くらいに思っていました(笑)。それが、それこそ効率の延長線上で数字を追っていく中で、一番販売数が良いのが「とんかつ茶漬け」だと改めて認識したのです。お客さまが一番食べてくださっているものがうちの一番の主力商品なのだから、「すずや」という名前でやっていく以上、それを大事に育てていかなければビジネスの基盤自体がおぼつかないと思いました。商売に入って5〜6年、30歳を越えた頃の出来事です。
もんもんとしながらも無我夢中で仕事をしてきた中で、「とんかつ茶漬け」が持っている力というのを見直した。それはこの「すずや」の中で初めて自分が受け入れたものでした。これはどんなことがあっても守っていこう、育てていこうと決心しました。

(後編に続く)

 関連リンク 
「すずや 新宿本店]
東京都新宿区歌舞伎町1-23-15 SUZUYAビル5階
https://www.toncya-suzuya.co.jp/index.html
*営業状況など最新情報は店舗、またはHPなどでご確認ください。

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