15周年を迎えた「新宿歌舞伎町区役所通りイルミネーション」
「街を明るくしたい」と光に込めた思い
株式会社チェックメイト 代表取締役 藤沢 薫さんインタビュー <前編>

2021.02.22

靖国通りの北側に広がる歌舞伎町には、入り口に「歌舞伎町一番街アーチ」が架かる「劇場通り」、「新宿東宝ビル」が見える「ゴジラロード」などの通りが南北に通っている。今回ご紹介する「区役所通り」は、その名の通り「新宿区役所」に隣接し、ゴールデン街が目と鼻の先という立地にある。この通りで今や歌舞伎町の風物詩として人々が楽しみにしているのが、今年で15周年を迎えた「新宿歌舞伎町区役所通りイルミネーション」(以下、「区役所通りイルミネーション」)だ。毎年11月頭から2月末までの4ヶ月間、約700mにわたる「区役所通り」の街路樹に鮮やかなイルミネーションが点灯する。

藤沢 薫さん藤沢 薫さん

2006(平成18)年に、「歌舞伎町を明るくしたい」とイルミネーションを企画し実行まで奔走したのが、通り沿いに建つ「チェックメイトビル」を運営する株式会社チェックメイト 代表取締役の藤沢薫さんだ。「チェス」をモチーフに建てられたという非常にモダンなビルの歴史、そして「区役所通りイルミネーション」を手掛けられるようになったきっかけ、歌舞伎町の街について、藤沢さんに伺った。

「チェックメイトビル」は建てられて45年になると伺いました。

私の夫が1976(昭和51)年に建てたビルです。夫の父は三重県伊賀市の出身で、1922(大正11)年に台東区蔵前で、「伊賀越え枕本舗 藤澤清太郎商店」という枕など寝具を扱う店を創業したんですね。早くに亡くなってしまったのですが、全国の旅館に枕を卸したり、丸くて横に猫の顔がついた子供が喜びそうな枕などいろいろ発明したり、アイディアマンだったそうです。
新宿の土地は店の倉庫にと思って買った土地だったと聞いています。枕や布団ってかさがあるでしょ。中心地だった蔵前に比べると新宿はまだ田舎で、大きな倉庫が作れると思ったのだと思います。

1949(昭和24)年、蔵前から新宿に来た夫が当時住んでいたという家には、戦争で家を焼け出された人がみんな来ては泊まったり食事をしたりしていたそうです。戦時中は、寝具店という店柄、布がたくさんあったのでそれを食べ物と交換していたという話も聞きました。そうした背景もあって倉庫ではなく「旅館」を始めたらと考え、この場所に「藤や旅館」を開業したのです。映画監督の五所平之助さんも定宿にされていて、旅館でもいくつかシナリオを書かれたそうです。その後、旅館を廃業し、建てたのがこのビルでした。

外観も内観も非常にモダンなデザインのビルですね。

「チェックメイトビル」内観「チェックメイトビル」内観
チェスがモチーフになっていて、1階のロビーもチェス盤のようになっています。2階へ上がる階段の壁面にあるのは、エジプトのネフェルティティ王女がチェスをしているレリーフです。「チェックメイト」という名は将棋でいう「王手詰め」の意味、つまり「これ以上のものはない」という思いを込め、夫が付けたものです。

藤沢さんと歌舞伎町の出会いはいつ頃のことですか?

ビルが建って8年目に結婚してここに来ました。昔は歌舞伎町というと一丁目だけで、当時はまだこの辺りも歌舞伎町二丁目ではなくて、西大久保1丁目という住所でした(昭和53年に町名変更)。都内出身ですけれど、歌舞伎町は学生時代に行ったようなこともなくて、それまでほとんど知りませんでした。ずっと仕事をしていたので、憧れていた専業主婦になって、夫を中心とした毎日は最高に幸せでした。10年経たずして夫が亡くなってしまったのですが、結婚した当時、夫も「これまで長く仕事に社会に貢献してきたから、これからは二人の人生を楽しもう」と一緒に世界中を旅行してまわり、それはすばらしい楽しい時間を過ごしました。私にとっては先にリタイア生活をしちゃったような感じかしら。これからはもうリタイアということはなくて、ずっと続けていくから(笑)。

2006年から2007年にかけて行われた「第1回区役所通りイルミネーション」の様子2006年から2007年にかけて行われた「第1回区役所通りイルミネーション」の様子

事業を継がれて、いかがでしたか?

それまで仕事は何も教えてもらっていなかったので、「1年間は」と決めてわからないことを従業員達にいろいろ教えてもらいました。そこからは自分なりに調べたり一つずつやってみて、失敗したり大変なこともおもしろいことも、たくさんありました。自分でどんどん外に出ていって、広げていったというところもあるかしらね。
事業を継いでから紹介を受けて商工会議所や女性会などに入ったのですが、そこで未亡人や夫の跡を継いで仕事をしている人たち、いろいろな方に出会いました。「みなさん頑張ってやられているから、私も頑張らなきゃ」と思って。業種は違えど、女性の経営者は悩みも同じだったりするんですね。

「第1回区役所通りイルミネーション」「第1回区役所通りイルミネーション」
経験を積み、さまざまな人と知り合うようになって10年が経った時に、7階の一室が空いたので挑戦してみようと思って「マイラウンジ」という店も始めました。初めての経験でしたが、自分が行きたいと思うような店をやりたいと思って。いらしてくださったお客さまが、「ほっ」と自分のラウンジのように思ってもらえるように願いを込めて名前をつけたのですが、続けているうちに人脈も広がりましたし、すばらしい方とのめぐりあいもありました。「マイラウンジ」は今年で18年になります。

その後イルミネーションを企画されたのはどんなきっかけからでしたか?

だんだん歌舞伎町の人たちともよく会うようになって、「マイラウンジ」も女性が一人でも来られるようにと思ったところもあったので、そうしたことと連動するように、「街ももう少し明るくなれば」という思いがありました。それまで歌舞伎町というと、女性は特に汚いとか怖い、危ないというイメージを持っていたと思います。

当時、新宿区長の中山弘子さんが、誰もが安心して楽しめる街づくりを目指して「歌舞伎町ルネッサンス」を推進されていたこともあって、この「区役所通り」には街路樹が約90本あるのですが、イルミネーションをつけたら少しは街のイメージチェンジにつながるのではないかと思ったんですね。企画書を作って相談に行った先で「そんなことできるわけない、お金も集められない」と言われることもありましたが、有志の方が集まってくださり、以前から面識があった中山区長に直接お話しに伺ったところ、開催の許可がおりました。それでNPO法人「新宿歌舞伎町区役所通り3Aの会」(3A=明るく、安心、歩きやすい)を立ち上げて、広く一般に寄付を募りました。

デザインから設営工事、警察署や消防署への許可申請などわからないことばかりなので、最初の年は全部調べて、本当に走り回りました。でも知らないことをやるのも楽しいじゃない。なんだってチャレンジャーじゃないとできませんよ。
大きなスポンサーの下でやるのではなく、民間の力でやるということが大事だと思います。地道にコツコツとチラシを配るなどしていると、その呼び掛けに応えて1,000円振り込んでくださる方や、小さいスナックが寄付してくださったり、15年続けて寄付してくださる方もいらっしゃったり、とてもうれしく思います。本当に小さな寄付の積み重ねで毎回このイルミネーションが出来ているんですね。そうした人たちの思いが、全部この通りの光になっていると思います。

(後編に続く)

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