歌舞伎町や新宿ゴールデン街など新宿らしいにぎわいのある街並みの先にたたずむ花園神社。靖国通り沿いに並ぶビルの合間にありながら、鳥居をくぐると清らかで落ち着いた空気に包まれる。
花園神社は江戸時代が始まるより前に奈良県の吉野山より勧請(かんじょう)され、江戸時代から内藤宿の総鎮守とされてきた。もともとは内藤宿の追分(現在伊勢丹がある付近)にあったが、寛永時代(1624〜1644年)に現在の場所に移し建てられたようである。1998(平成10)年には、内藤新宿開設300年に合わせて、花園神社創建350年記念祭が行われた。
この場所は徳川御三家の一つ、尾張藩の下屋敷の一部を拝領したもので、神社の名前はそこに広がっていた花園にちなむなどの説がある。江戸の頃は稲荷神社、三光院稲荷などと呼ばれていたというが、1916(大正5)年に名称が正式に「花園稲荷神社」に、1966(昭和41)年に「花園神社」へ改められた。
花園神社といえば、年の瀬に行われる酉の市を思い浮かべる人も多いかもしれない。明治時代に始まった酉の市は、合祀している「新宿大鳥神社」(内藤宿にあった)で、祭神である日本武尊の命日である11月の酉の日に行われていたという祭礼に由来する。「取り」「鷲づかみ」など言葉の連想から、縁起をかつぎ商売繁盛や開運などを祈願する庶民の祭りとして広まり、現在も多くの人が足を運ぶ。
芸能との縁も深いことでも有名で、大鳥居から拝殿に向かって右側には、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)を祭神とする芸能浅間神社の社があり、俳優や歌手ら芸能関係者も多く来社する。
新宿の街には今日、寄席やライブハウス、劇場などが多くあることはこのサイトでも見てきたが、境内で見世物や縁日が始まったのは江戸後期との記録が残っている。
花園神社はその歴史の中で度々火事に見舞われ社殿を焼失しているが、尾張藩の厚い庇護のもとにあり、それまでの過去2回の火事では藩の資金により社殿が造営されてきた。しかしその後の火事では社殿再建費用は支給されたものの十分ではなく、その費用をまかなうべく「香具見世願(こうぐみせねがい)」を寺社奉行に願い出たのである。
境内に設けた劇場では見世物や浄瑠璃、操り人形、物真似、子供踊りなどが行われ、水茶屋や楊弓場(弓で的を射る遊戯)なども造られ、大いに賑わった。とりわけ演劇や踊りは「三光院芝居」と呼ばれ名を馳せたという。江戸三座といわれ、幕府公認の歌舞伎劇場を持っていた中村座、市村座が芝居興行した記録もあるなど、有名な役者も興行に関わっていたようである。
「紅(あか)テント」と呼ばれるテント芝居(テントを建てそこを舞台に行う芝居)で高い人気を誇る劇作家・演出家の唐十郎が率いる劇団「唐組」も、花園神社が始まりである。
1967(昭和42)年に境内で上演した「月笛お仙−義理人情いろはにほへと篇」(当時の劇団名は「状況劇場」)は、演劇史上初めて行われたテント公演という点でもエポックメイキングな出来事と伝えられている。
新宿ゴールデン街で「クラクラ」を経営する外波山文明さんが率いる劇団「椿組」も30年以上にわたり、毎年花園神社で野外公演を行っている。蜷川幸雄演出の「王女メディア」(平幹二朗主演)が初の海外公演としてギリシャ、イタリアで大絶賛を受け、1984(昭和59)年に凱旋公演した場所も花園神社だった。
例大祭などの神事のほか、酉の市、骨董市、演劇などさまざまな催しが行われる境内は、神社関係者によって「広場」と呼ばれるのだという。片山文彦名誉宮司は『花園神社 三百五十年誌』の中で、「神社は、とくに地域住民にとって、共通の広場であり、共通の集会場である。(中略)神社には先祖から子孫に伝わる信仰の縦糸と、地域住民にとっての広場である横糸たるカルチャー・センター的役割がある」と綴り、「地域における文化活動の場として文化の発信源にしたい(以上引用)」と思いを述べている。
コロナ禍にある近年だが、片山前宮司から引き継いだ片山裕司宮司も「人のつながり」を大事に考え、神社での神事、催しを「できる限り行っていけるよう日々考えている」と話す。
「氏子(うじこ)の方、氏子に限らず神社にいらっしゃる方との親密さ、密接な付き合いというのは神社にとっては本当に大切で必要なことです。神社の行事は基本的には何百年間と変わらずに続いているものです。しかし行事がないとそうしたつながりもなくなってしまいます。例えば例大祭で出すお神輿(みこし)は1t以上あるような大きなもので、担ぐにはそれ相応の人の力が必要です。お神輿を巡幸させるためには人と人の対話なくしてはありえませんし、やはり神様をお乗せした神輿は人にかついでもらって、氏子の地域をまわることが大切です。
古くからいらっしゃる氏子の方々が神酒所を立てたり、お神輿を飾りつけたりしてきましたが、1年でもお祭りをやらないと必要な技術が継承されていかなかったり、現場の進行手順もわからなくなってしまうなど、一回無くなってしまうと復活させるのはすごく難しいものなのです。連続性ですね。行事には関係官公庁、各者との段取りをはじめとした相談と調整がつきものです。行政との調整にも段取りと手順がある。断絶させないためにどうするか考えないといけません。コロナ禍では、もちろん花園神社もどのような対応をするか考えさせられました。お祭りは規模を大幅に縮小し神事のみの斎行となりました。しかし基本的に行う方向を向いていないと何もできません。行うという決断をした後に中止になったとしても、それまでの行うという前提で関係官公庁各者に相談していることが土台になって、次につながると考えています。神社は屋外ということもありますから、コロナ禍でも可能な限り、これからもできそうなことを行っていけたらと思っています」
花園神社がたたずむ新宿は、内藤新宿が生まれたその時代から飛躍的に大都市へと成長し、現在もなお各エリアで再開発が進む。
「街は変化し続けます。特に大きな商業ビルは、ビル内が便利になりすぎてビルで完結してしまい、人がビルから外に出て街を回遊しないようになっては困るように感じています。また高いビルは建つと脇道に日陰ができて、そこに淀みもできてしまいます。大きなビル事業さんには絶えず地域の回遊性が高まるような、街にとって明るく希望の持てる開発、まちづくりをお願いしたいと思っています。
花園神社の氏子の方々も高齢化してきており、代を引き継いで新宿に住み続けることも難しいと新宿から離れる方もいらっしゃいます。氏子の方々に代々の付き合いを継続し尊重していただけるよう、神社の行事は今後ますます大事になっていくと思っています。例えば、お祭りは神社の存在感を示す大事な行事で、お祭りを通して神社は存在感を示し続けなくてはいけないと思っています。東京に限らずですが、神社もそれぞれその姿形の維持が難しくなってきています。神社の施設も時間が経てば古び、傷んでくる。古くからあるそのままの姿を守ることにはお金もかかり、これまでの姿を保ち行事を変えずに守っていくことが簡単ではない時代になっています。花園神社は駅に近く、繁華街のそばにありながら緑も多い、環境・立地とも非常に条件の良い恵まれた神社です。その花園神社をこれまで守ってきたこの形で維持存続していくために考えることは多いです。行事を充実させ、多くの方に来ていただくことが神社の維持存続につながります。神社は『公のために何ができるか』、つきつめればそれが神社の存在理由です。人が困っている時には何か助けられたらと思いますし、神社が街の広場として多様に役に立つ場所でいること、それが神社の役割なのです。姿形変わらずこの場所を今後も維持することが、私の務めと考えています。氏子の方々に限らず、人と人のつながりを大事に、地域の方々、また遠方の方々まで花園神社にいらしてくださる方のためにこれまでと変わらぬことを考え、奉仕してゆく。そして花園神社があることで皆さまのお役にたつ。そんな変わらぬ神社の役目を務め、この街とさまざまに関わっていけたらと思っています」
参考資料
『花園神社 三百五十年誌<上巻>』(平成10年、宗教法人花園神社 発行)
『花園神社 三百五十年誌<下巻>』(平成12年、宗教法人花園神社 発行)