本サイトではこれまで東宝、ヒューマックスグループ、東急レクリエーションと歌舞伎町シネシティ広場を取り囲むように建つ、歴史ある企業にお話を伺ってきた。今回は、戦後の歌舞伎町で「新宿オデヲン座」などの映画館をはじめ、さまざまなレジャー施設を手がけてきた東亜興行株式会社をご紹介したい。東亜興行は前述した3つの建物のオーナーと「四葉会」を結成し、互いに協力しあいながら映画文化を通じて街の発展に尽力してきた企業でもある。
東亜興行は1949(昭和24)年8月、高橋康友(李康友)が創業したことにその歴史が始まる。韓国出身の高橋氏は来日後、星薬科大学を卒業。戦後、中野で製薬会社三亜薬品工業株式会社を設立する。胃腸薬「イモール」の製造販売で資産を築き、進出したのが映画館の経営であった。
高橋氏はまず杉並区阿佐ヶ谷に「阿佐谷オデオン座」、翌年12月「中野オデヲン座」を開業する。1950年前後といえば戦後の復興が一段落し、これまでのような日常を取り戻していく中で人々が娯楽を渇望し、それに応えるように国内でも映画が制作され、海外からも活発に作品を輸入、各地に劇場が建ちはじめた時代である。
当時の歌舞伎町はどうだったかといえば、ちょうど「東京産業文化博覧会」が開催(1950年4月〜7月)されていたところであった。この博覧会は、戦後いち早く「興行街を中心」にしたユニークなまちづくりを進めてきた歌舞伎町で、予定していた劇場や映画館などの施設の建設が頓挫し、空いたままになった土地の行く末を危惧し開催されたものであった。広場を囲んだ産業館、児童青年館、野外劇場、社会教育館、婦人館、合理化生活館といった各パビリオンの建設には、その後劇場などへの転用の目論見があった。
実際、1947(昭和22)年に歌舞伎町で最初の映画館として唯一計画通りに開業した「新宿地球座」(現在のヒューマックスパビリオン新宿アネックス)の経営者・林以文氏は婦人館の譲渡を喜兵衛に打診していたと言われ、後にその場所に客席数1500人規模の「新宿劇場」が誕生する。
一方、高橋氏は1951(昭和26)年、「新宿地球座」の並びに建っていた「合理化生活館」の跡地に「新宿オデヲン座」を開業し、歌舞伎町へ進出。これが歌舞伎町で第2号の映画館となった。
続いて買収済みであった社会教育(工業)館(新宿オデヲン座の広場をはさんではす向かい)に1955(昭和30)年、「グランドビル」を竣工・開業する。地上6階、地下1階建てのビルで、1〜4階には封切り映画館で1200席を有する「グランド・オデヲン座」、5・6階には「新宿ステレオホール」(ダンスホール)と「キャバレーオデヲン」、地下には洋画二番館で500席の「ニュー・オデオン座」を配した総合レジャービルの誕生だった。「新宿コマ劇場」、「新宿東急文化会館」が開業するのはこの翌年のことである。
最初に開業した「新宿オデヲン座」は後にグランドビル改め「第一東亜会館」内に移転、同ビル内には後年、新宿アカデミー劇場や新宿オスカー劇場なども開業した。2009(平成21)年、この土地・建物はアパグループに売却され、2015(平成27)年にアパホテル新宿 歌舞伎町タワーが開業し、現在に至る。
一方、歌舞伎町進出の地であった「新宿オデヲン座」跡地には1969(昭和44)年、「第二東亜会館」が建てられ、「歌舞伎町東映劇場」(後の新宿トーア)、パチンコ店「新宿ゲームセンター」、ボウリング場「新宿トーアボウル」が開場する。1970〜80年代に入って各階を業態変更し、複数のディスコを展開すると、店内に入りきれない若者がビル前に集うほどのメッカとなった。
2018(平成30)年、ビルの地下1階にテナントとして大型ナイトクラブ「WARP SHINJUKU」がオープン、初日には約1500人がフロアを埋め尽くし盛り上がりを見せた。その「WARP SHINJUKU」では、かつてビルに存在したディスコを懐かしむような1日限定の「TOKYO DISCO CIRCUIT」も企画開催されている。80年代、90年代のディスコミュージックを楽しみながらディスコ史だけでなく、歌舞伎町の歴史の一端にも触れられそうなイベントである。
歌舞伎町の黎明期から街の魅力を担い、街とともに変化しながら発展してきた東亜興行。2018年冬には、前述の旧「四葉会」のメンバーが約10年ぶりに再集結し、さらにアパホテルも加わり、歌舞伎町商店街振興組合主催で企画したイベント「たてもののおしばい」が行われたり、2019年冬には、同メンバーを中心に「歌舞伎町X’MASスケートリンク」も行われたりと、歌舞伎町シネシティ広場を活用する各企業の取り組みが行われてきている。同社代表取締役の大谷昌義さんはこれからに向けて「
徐々に海外からの観光客の足も戻り始め、増加が見込まれる歌舞伎町の街で、今後ますますの賑わいの創出が期待される。