復活した新宿の名産品 内藤とうがらし
新宿観光振興協会設立の原動力 「伊勢丹 新宿本店」の街への思い
新宿観光振興協会設立の原動力 「伊勢丹 新宿本店」の 街への思い
魅力的なまちづくりに向けてイベント活用される 「歌舞伎町シネシティ広場」
魅力的なまちづくりに向けて イベント活用される 「歌舞伎町シネシティ広場」
2020.11.20
新宿東口、武蔵野ビル3階にある「武蔵野館」のロビーに足を踏み入れると、上映作品にまつわるディスプレイや立体パネルを配したスポットが広がり、映画鑑賞前のひと時ワクワクした気分が高まっていくのを感じる。上映作品のセレクションだけでなく、映画館そのもののファンも多いことで知られ独特の存在感を放つ「武蔵野館」は、1920(大正9)年開館とその歴史は古い。2020年6月には100周年を迎え、都内に現存する映もっと読む
2020.11.05
昭和時代の新宿を代表する「新宿コマ劇場」の跡地に、その意思を引き継ぐかのように建てられた「新宿東宝ビル」は、瞬く間に平成時代の新宿の街のシンボルとなった。 シネコン、ホテル、飲食店などを有した複合ビルは「ゴジラビル」とも呼ばれ賑わいをみせる。 ビル全体を見ると巨大なゴジラの意匠(ゴジラヘッド)が非常に目を惹きます。これは初めから計画にあったのですか? ビル着工時には全くありませんでした。元になっもっと読む
新宿エリアにはそれぞれに個性的な映画館が建ち並んでいる。中でも歌舞伎町の中心に2015年に登場した映画館「TOHO シネマズ」が入るビルは、8階のテラスから怪獣ゴジラがその迫力ある顔を露わにし、今や新宿のシンボルとも言える名所の一つになっている。 歌舞伎町の「シネシティ広場」に面した場所で、「ゴジラビル」とも呼ばれ親しまれている「新宿東宝ビル」には、都内最大級規模の映画館(3〜6階)のほかに、「ホもっと読む
2020.09.08
2020年7月19日、JR新宿駅東口駅前広場の新たな姿がお披露目となった。この日は、新宿駅の東と西、両エリアを自由に通り抜けることができる駅構内の東西自由通路が開通した日でもある。新たな通路から東側の地上へ出ると、華やかな現代アートで彩られた空間に立つ、7メートルの巨大なモニュメントが目に飛び込んでくる。 もともとあった広場を大規模リニューアルした同計画は、広場に面した駅ビル「LUMINE ESTもっと読む
2020.08.31
携帯電話にカメラ機能が加わったことで、これまでカメラにあまり縁がなかった人も日々手軽に写真を撮ったり、日常のちょっとしたシーンを記録したりするようになったのではないだろうか。 そんな風に写真を楽しむ人から、写真とカメラをこよなく愛する人、海外からの観光客まであらゆる人に向けて「新しい写真の楽しみ方」を提案する空間が誕生した。7月3日、新宿の東口エリアにオープンした「新宿 北村写真機店」だ。写真にまもっと読む
2020.08.28
歌舞伎町には、ゴジラのいる映画館TOHOシネマズ新宿、ナイトクラブ「WARP SHINJUKU」などが入るビル、ホテルなどに四方を囲まれた「歌舞伎町シネシティ広場」がある。広場の西側では「歌舞伎町一丁目地区開発計画」が進められ、ホテル、映画館、劇場、ライブホールなど有する新高層ビルがまさに建設中だ。 この一帯はかつて角筈(つのはず)地区と呼ばれ、広場は終戦後、同地区会長だった鈴木喜兵衛が先導した街もっと読む
2020.08.27
2020年2月、新宿区をホームタウンとするサッカークラブ「Criacao Shinjuku(クリアソン新宿)」が新たなメンバーを迎え、新体制となって始動した。株式会社Criacaoが運営する同クラブは、切磋琢磨しながら競技でトップを目指すだけでなく、サッカーを通じた新宿区の地域活性、豊かさを感じられる社会の実現に向けた事業を幅広く展開する。自身も選手でありキャプテンとしてチームを束ねながら、広報ももっと読む
2020.08.26
第二次世界大戦の終戦を迎え一変した新宿の街。荒れ果てた風景から戦後復興の過程の中で、どのようにして現在我々が目にしている街の姿が生まれ、出来上がってきたのだろうか。現代の新宿の街の成り立ちを考えた時に重要な鍵となるのは、駅前を中心に仮設的に立ち並んだ「闇市」の存在であったと聞き、建築史・都市史を専門に都市の形成を研究されている東京理科大学工学部建築学科・石榑督和(いしぐれまさかず)助教に伺ったお話もっと読む
2020.08.25
江戸時代半ばに「内藤新宿」として新たに開設された宿場町から歴史が始まる新宿。長らくその中心地であったのは現在の新宿三丁目付近であったが、街の景観は交通網の発展と共に変化を見せる。新宿も明治時代、当時の中心からは場末ともいえる離れたエリアに新駅が開設されると物資や人の交流の起点として、駅前エリアは多大なポテンシャルを持つようになり、徐々に新興の繁華街として成長を遂げる。駅開設と時を同じくして創業したもっと読む
Editorial department / 本文中の本アイコンは、歌舞伎町文化新聞編集部の略称アイコンです。
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(一部)資料提供先・所蔵先 新宿歴史博物館
1590年北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康を関東の新領主に命じた。その家康に江戸西側の広大な土地を拝領されたのが、家康の鉄砲隊を率いた武将・内藤清成であった。
新宿発展の歴史は江戸から始まる。江戸城建設のため石灰などの資材を運ぶため、1606年に青梅街道が開設されると、甲州街道との合流点となった追分(現在の新宿三丁目交差点)は、次第に人馬であふれるようになっていった。
現在も残る「太宗寺」のある周辺(現在の新宿二丁目あたり)には、やがて自然発生的に茶屋や旅籠のたぐいができはじめ、宿場にも似た形を成していった。
そして、この内藤家の下屋敷近くにできあがったその一帯は、やがて誰ともなく、その立地から、「内藤宿」と呼ばれるようになったのだった。
時がたち、江戸には華やかな文化が開いていた。交通や行政が整い、江戸の需要を目当てに農産物や食料を供給する道として、甲州街道、青梅街道と賑わいを増していた。
この賑わいに目を付けたのが、浅草の商人だった。1697年、浅草の名主・高松喜兵衛は、内藤町の賑わいに目を付け、甲州街道沿いの新たな宿場設立を幕府に申し出た。
宿場は、インフラとしての重要性とともに、当時一大娯楽施設でもあった。喜兵衛は、高松喜六と名を改めこの宿の初代名主となり、街道を整備し幅五間半(約10m)とし、両側に家作地を造成、町政を行うこととなった。
こうして、四谷大木土門外(現四谷四丁目交差点付近)から、追分(現新宿三丁目交差点付近)までの約1.2Kmに、甲州街道の新たな宿場が誕生した。この宿場は、すでにできあがっていた自然発生的な内藤宿に対して、正式に「内藤新宿」と呼ばれるようになる。「新宿」の名はここに始まった。
そして、今に至るまで、「新宿」は、たえず人々の賑わいと需要に応じて、インフラを発展させ、一大娯楽施設としての機能を変貌させてきた。
宿場は町になり、町は街になった300年。そこに集い、にぎわう人々たちからは多くの文化が生まれた。しかし、そこにはあの時代からずっと変わらない人々の流儀があった。
「かぶく」という言葉がある。歌舞伎の語源になったこの言葉は、「異風」を好み、華やかで多様、ときに常軌を逸した人の行動や風体をあらわすものだ。
この街の人々は「かぶく」ことさえ「粋」ととらえ愛してきた。それが、この街の「流儀」だ。「歌舞伎町」という名のエリアを持つこの街は、多くの「かぶき者」を産み、またみなその者を愛してきた。
今や「一日の乗降客数364万人!」を誇る「新宿」は、2007年ギネス世界記録登録されるに至った。新宿は、日本を代表する一大ターミナルシティとして終わりのない発展を続ける、世界一の宿場町なのかもしれない。産まれ続ける「かぶき者」とともに・・・。さあ、かぶき者たちよ、ここに集い留まらず、世界に発信していこうじゃないか!!
世界に向かって「かぶけ」!! 世を騒がす「かぶき者たちへ」